第五節
1月12日。午後。
居間は、静かだった。
外の空は低い。
雲は、冬の湿気を含んだまま、東大阪の家並みの上に広がっている。
猪原は、ついさっき帰っていった。
契約書の控えを封筒に入れ、PHSを食卓の上に置き、深く頭を下げて玄関を出ていった。
足早だった。
この二日、ほとんど寝ていないのだろう。
背広の背中が、疲れて見えた。
父は午後から仕事に行った。
午前休を取って、説明を聞き、書類を読み、名前を書き、最後に判子を押した。
判をつく前、父はしばらく朱肉の蓋を見ていた。
『もう、どうにでもなれ』
そう言って、印鑑を押した。
朱肉の赤が、やけに濃く見えていた。
母は買い物に出ている。
そして自分はと言うと…幼稚園を休んだ。
契約締結のために、幼稚園を休む。
どう考えてもおかしい。
遼太郎は、畳の上に寝転がった。
天井の木目を見る。
蛍光灯の紐が、少しだけ揺れている。
やれやれだ。
一昨日のことを思い出す。
中華料理店。
白い卓布。
茶器。
皿に残った料理。
それから、怒鳴り込んできた銀髪の女。
父と母がトイレから帰ってきた後も、大変だった。
父は、へべれけの母を支えていた。
母は顔を赤くして、父の肩に半分もたれている。
吐き出して楽になったのか上機嫌だった。
『電話で質問に答えたら、月1万円ですか…』
父は、どこか安心したような顔で言った。
『それやったらまぁ、遼太郎も嫌がってなければ、ええんとちゃいますかね』
分かっていない。
遼太郎は思った。
『ダラー』
ジョニーが短く言った。
『え? だら?』
父が聞き返す。
猪原が、丁寧に口を開いた。
『西尾様。円ではありません。ドルです。1万ドルです』
父の顔が止まった。
『え、え、え。1ドルって、いくらですか?』
『昨日の終値は、131円52銭でございます』
『え?』
父は瞬きをした。
『131万円ってことですか? 年ですよね?』
『月でございます』
沈黙が落ちた。
母は父の肩で、くすくす笑っている。
『三か月分前払いやと……』
『約393万円でございます』
父の口元が、引きつった。
『俺の年収…電話だけで…』
小さな声だった。
次の瞬間、悲鳴になった。
『遼ぉぉぉ! またなんかやったんかぁぁぁ!』
母がげらげら笑った。
父は母を支えたまま、半泣きになっている。
ジョニーは目を逸らした。
猪原は表情を変えなかった。
『西尾様、393万円で終わりではございません』
残酷だった。
『試用期間中に目に見えた成果が上がりましたら、正式な年間契約へ移行し、毎月1万ドル、年額で約1572万円となります』
父はもう何も言わなかった。
『また、成果に伴うインセンティブやボーナスもございます。税務上、税理士をお雇いになることを強くお勧めいたします。もしよろしければ、弊社と提携しております税理士事務所をご案内……西尾様?』
父は、絨毯の上に力なくへたり込んでいた。
母は床に胡坐をかき、残った紹興酒を啜っていた。
帰りのリムジンも酷かった。
上機嫌の母は、持たせてもらった土産を抱えていた。
紙袋がいくつもあった。
冷凍肉まん。
菓子。
茶葉。
どれも高そうだった。
『おしゃけいっぱい飲めて、お土産もろて、お母ちゃん幸せやぁ』
そりゃ良かった。
母が幸せなら、それでいい。
しかし、向かいの席では父が虚ろな目をしていた。
掌の古傷を、親指で何度も擦っている。
包丁でざっくりやったと言っていた傷だ。
その傷を見つめながら、父は小さく呟いていた。
『怖がるな……数字、数字、数字や……』
怖がっている声だった。
母は土産を抱いて眠り始めていた。
遼太郎は、畳の上で息を吐いた。
食卓の上に、PHSが置かれている。
猪原が置いていったものだ。
当面の代機。
通信環境整備費とやらを貰うからには、早めにちゃんとした端末を用意しなくてはならない。
通信環境整備費。
スタシア・ラマーノフ。
あの女の顔が浮かんだ。
弱い者いじめ。
痛いところを突いてきた。
否定できなかった。
調子に乗っていた。
それは自分でも分かっている。
未来を知っている。
競馬で勝った。
ブラックストームが、外資系企業が自分の言葉を聞く。
ジョニーは本気で自分を必要としている。
気分が良くなっていなかったと言えば、嘘になる。
だから、あの言葉は効いた。
芯がしっかりとした人なのだろう。
信用もできる。
少なくとも、子供を食い物にする大人ではない。
契約を組み替える時の手際も凄かった。
危ない言葉を潰して、別の名前に変えていく。
すごいお姉さんだ。
そう思った。
けれど。
やっぱり性格は悪い。
うん。
腹は立つ。
「性悪女め」
小さく呟いた。
その時だった。
PHSが鳴った。
乾いた電子音が、居間に響く。
遼太郎は肩を跳ねさせた。
嘘やろ。
早すぎる。
PHSは鳴り続けている。
遼太郎は、畳に手をついて起き上がった。
食卓へ近づく。
小さな画面に番号が出ていた。
知らない番号だった。
だが、誰かは分かる。
恐る恐る、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『リョウ君、助けてくれよぉぉ』
ジョニーだった。
遼太郎は目を閉じた。
ああ。
やっぱり。
「流石に早くないか。契約、始まってないんじゃ……」
『昨日、ペレグリンが倒産してさぁぁぁ』
聞いていない。
『香港がひどい。アジアもひどい。日経平均がズルズルだ。フリーフォールだよ、フリーフォール』
声が上擦っている。
電話の向こうが騒がしい。
幾重にも鳴り響くコール音。
誰かが英語を叫んでいる。
端末のキーを叩く音も混じっていた。
ああ、駄目だこりゃ。
『今週、下手したら日経は1万3000円を切るかもしれない。どこで降りる? どこで降りたらいい?』
まくしたてる声だった。
数字が多い。
恐怖も多い。
遼太郎は、PHSを握り直した。
未来知識を探る。
1998年1月。
香港。
ペレグリン。
アジア金融危機。
日経平均。
断片が浮かぶ。
新聞の見出し。
ニュース番組の画面。
チャート。
数字。
1月13日
1万4664円。
底の形が見えた。
「恐らく、1万4700円くらいが底だ」
電話の向こうが止まった。
「1万4700円台になったら、さっさと抜けろ。それより下の夢は見るなよ」
『……1万3000円は?』
「ないと思う」
『本当に?』
「俺はそう見る」
短く答える。
沈黙。
ジョニーの息が、少しだけ整っていくのが分かった。
電話越しでも分かるくらい、呼吸が変わった。
『ありがとう。情けなくてごめんねぇ』
「どっちが子供か分からんな」
『本当にそうだね』
鼻をすする音がした。
遼太郎は、胡坐をかく。
他に、今月危ないものは…
遼太郎はもう一度、未来知識を探った。
1998年1月。
金融。
銀行。
大蔵省。
ノーパンしゃぶしゃぶ事件
逮捕。
待て。
妙な文字が見えた。
遼太郎は眉を寄せた。
何か変な字面があった。
もう一回…
ノーパンしゃぶしゃぶ事件ってなんや?
思わず声に出しそうになった。
電話の向こうでは、ジョニーがべそをかいている。
遼太郎は顔をしかめた。
未来知識をさらにたぐる。
見出しが並ぶ。
大蔵省。
銀行。
接待。
過剰接待。
汚職。
逮捕。
大臣辞任。
うわぁ。
大蔵省、こんな時期になんつーことしてるんや。
「ジョニー、運用してる銘柄で、銀行系はあるか。都市銀行系」
『そこそこある』
ジョニーの声が変わった。
さっきまでの泣き声ではない。
市場を見る人間の声だった。
「悪いこと言わん。銀行系は今週来週中に処分した方がいい」
電話の向こうで、空気が固まる。
『理由は?』
「今の銀行は大蔵省頼みだ」
『それは、そうだね』
「その大蔵省が、きな臭い」
短い沈黙があった。
遠くの端末音だけが聞こえる。
ジョニーは黙っていた。
おそらく、頭の中で銘柄と数字を並べているのだろう。
「処分するなら早めにやれ。空売りを仕込むなら結構だが自己責任でやれよ」
『自己責任』
「そうだ」
『分かった』
ジョニーの声は、もう泣いていなかった。
『ありがとう』
「礼はいい」
『リョウ君』
「なんだ」
『君のおかげで、少し息ができる』
遼太郎は黙った。
五歳児に言う言葉ではない。
だが、電話の向こうにいる男は、本気でそう言っていた。
「…お前のおじさん、すごいな」
『メリーおじさん?』
「ああ。よくお前に付き合ってられる」
ジョニーが、少しだけ笑った。
『ひどいなぁ』
「褒めてる」
『嘘だ』
「じゃあな」
通話を切った。
PHSの画面が、また無機質な表示に戻る。
居間に静けさが戻った。
遼太郎は、しばらくそれを見ていた。
小さい機械だった。
畳の上に置けば、ただの玩具にも見える。
だが、その向こうでは、数百億が動いている。
笑えない。
遼太郎は、畳へ仰向けに倒れた。
疲れた。
幼稚園を休んで、契約を結んで、外資系トレーダーの泣き言を聞いて、大蔵省の汚職を憂う。
五歳児の午後ではない。
そう思った時だった。
玄関の呼び鈴が鳴った。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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