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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
35/58

第四節

 個室の空気は、しばらく動かなかった。

 白い卓布の上で、茶器の湯気だけが薄く立っている。

 料理の皿はまだ温かかった。

 スタシアは、扉の前で仁王立ちしていた。

 小柳が何か言おうとした。

 しかし声にならない。

 猪原は、椅子の背に手を置いたまま固まっている。

 店員は、開いた扉の向こうで気配だけを消していた。

 スタシアは、ゆっくりと歩き出した。

 カツ、とヒールが鳴る。

 絨毯が音を吸うはずなのに、その音だけははっきり聞こえた。

 カツ。

 カツ。

 円卓を半分回り込むようにして、ジョニーの前まで来る。

 ジョニーは笑っていた。

 笑っていたが、その笑みは薄い。

 唇の端だけで作ったものだった。

「最初から私に聞かせるつもりだったんですか」

 英語で問いかける。

 小細工を弄しやがって。

 腹の底で、言葉にならない罵声が煮えた。

 ジョニーは一度、小さく息を吸った。

 青い目が、わずかに泳ぐ。

「頼むよ、スタシア。こうするしかなかったんだ」

 声が思ったより弱かった。

 スタシアはさらに半歩近づいた。

 距離が詰まる。

 ジョニーは椅子の背へわずかに肩を引いた。

「頼む?」

 スタシアの眉が吊り上がる。

「こんなもの、契約できるわけないでしょうが」

「分かってる」

「分かっていて、やったんですか」

 ジョニーを睨みつける。

「だから、君に正面から持っていくわけにはいかなかったんだ」

 ジョニーの顔から表面の余裕が剥がれていた。

 整った顔が、年齢よりも幼く見える。

 片方の親指をもう片方の指で撫でていた。

 何度も。

 何度も。

 薄い爪の縁を確かめるように。

「なんで相談しなかったんですか」

「しようとしたじゃないか!」

 ジョニーの声が跳ねた。

 小柳の肩がびくりと動く。

「なのに君が!」

 スタシアは黙った。

 思い出した。

 この男が、あの子供にもう一度会いたいと言ってきた時のことだ。

 プライバシー。

 守秘義務。

 未成年者保護。

 必要な言葉を並べて、叩き返した。

 正しかった。

 あの時の自分は正しかった。


 ジョニーは呼吸を乱していた。

 唇が乾いている。

 水を飲もうとして、グラスに触れ、そのまま手を止めた。

「分かってるよ。子供の意見を聞いて500億を動かすなんて異常だってね」

 500億。

 部屋の空気がさらに重くなった。

「でも、この国の市場はおかしいんだ。歪んでる」

 ジョニーは一度、目を閉じた。

「そろそろ、やばいのが来る。見てたら分かる。だけど、どこで降りたら良いか分からない。僕は自分の判断を信用しきれない」

 声が震えた。

「こうでもしないと、間に合わなかったんだ」

 沈黙が落ちた。

 遠くで、食器の触れ合う音がした。


 スタシアは、ジョニーを見ていた。

 この男は、自分の金儲けのためだけに五歳児を使おうとしているわけではない。

 本当に追い詰められている。

 本気で、ホットラインを、助けを必要としている。

 だから余計に質が悪い。

 アンタの仕事は、数字を読んで腹を括ることでしょうに。

 根性なし。

 そう思った。

 スタシアは、大きく息を吐いた。

 哀れだ。

 怒りの熱が、少しだけ肺から抜ける。

「怒る気が失せました」

 スタシアは、振り返った。

 遼太郎がいた。

 大人用の椅子に、ちょこんと座っている。

 白いシャツ。

 小さなジャケット。

 蝶ネクタイが少し曲がっていた。

 顔は強張っている。

「そこのアンタ」

 遼太郎の肩が跳ねた。

「はい」

 返事だけは素直だった。

 それが余計に腹立たしい。

「まさか、自分は被害者ですって言うつもりじゃないわよね?」

 遼太郎の目が一瞬泳いだ。

 スタシアは見逃さなかった。

「聞いたわよ。前払いに値上げ要求。何がお小遣いよ」

 遼太郎の口が少し開く。

 何か言おうとして、言葉が出ない。

 スタシアは、そこでロシア語に切り替えた。

「可哀想な大人の足元を見て交渉ごっこ? 積み木遊びより弱い者いじめの方が似合ってるわよ」

 遼太郎の顔が歪んだ。

 顔を俯ける。

 言い過ぎたかしら。

 だが、すぐに打ち消す。

 このくらいの灸がちょうどいい。

 大人を舐めるな。

 金を舐めるな。

 そして、追い詰められた人間を舐めるな。

「まあいいわ」

 スタシアは日本語に戻した。

「で、この人をちゃんと助けてくれるんでしょうね」

 遼太郎は顔を上げた。

「まさか、子供だから分かりませーんって逃げるんじゃないでしょうね?」

 逃げるなら子供でも許さない。

 遼太郎の目が、変わった。

 さっきまで泳いでいた目が据わる。

「仕事はする」

 低い声だった。

「なめるな」

 スタシアは、舌打ちをした。

 ふん、良い目をするじゃない。

 思わず感心した。

 ここで無理に終わらせても、この連中は水面下でもっと危ないことをする。

 バカボンは追い詰められている。

 クソガキは金を欲しがっている。

 小柳は事なかれで流す。

 猪原は上から言われれば動く。

 その方が、よほど正しくない。

 だったら。

 私が、正しい形にしてやる。

 少なくとも、正しく見える形に。

 私が制御できる形に。


 スタシアは、目を閉じた。

 暗記している社内規程を頭の中でめくる。

 使えるもの。

 使えないもの。

 書ける言葉。

 書いてはいけない言葉。

 紙の上で生き残る名目を探す。

 投資助言契約は無理。

 アドバイザー契約も無理。

 成果報酬も危険。

 未成年に市場判断をさせる契約など論外。

 名目を変えるしかない。

 マーケティング調査協力。

 投資助言ではない。

 日本市場、個人投資家心理、消費者動向、若年層の生活感覚に関する聞き取り調査。

 この子供は参考意見を述べるだけ。

 最終的な投資判断と損益責任は、すべてブラックストーム側が負う。

 ぎりぎりだ。

 黒寄りの白。

 紙にはできる。

 スタシアは目を開けた。


「投資助言契約は無理です」

 ジョニーが顔を上げる。

「アドバイザー契約も無理です」

「スタシア」

 ジョニーの血の気が引いている。

「未成年者に市場判断をさせる契約なんて、論外です」

 言葉を切る。

 個室の空気が、また止まる。

 ジョニーが縋るように言った。

「じゃあ、どうすればいい?」

「マーケティング調査です」

「マーケティング?」

「そうです」

 スタシアは、ポケットからメモを取り出してペンを走らせる。

 小さな文字が、白い紙に並んでいく。

「日本市場、個人投資家心理、消費者動向、若年層の生活感覚に関する聞き取り調査。この子は、それに協力する。それだけです」

「でも、僕が必要なのは助言で……」

「聞き取り調査です」

「……」

「聞き取り調査です。分かりましたか」

 ジョニーは黙った。

 やがて、小さく頷いた。

「分かった。聞き取り調査だ」

「月1万ドル」

 スタシアは線を引いた。

「これは、定例調査協力費」

 また線を引く。

「三か月分の先払い3万ドル。これは、初回三か月分の定例調査協力費前払い。ただし、支払い方法と管理方法は親権者確認後に確定します」

 遼太郎が口を挟もうとした。

 スタシアは視線だけで黙らせた。

「5000ドル。これは通信環境整備費。PHS、通信料、関連機材、調査協力に必要な環境整備費。小遣いと一言でも書いたら、その書類は燃やします」

 猪原がごくりと唾を飲んだ。

「利益の1%インセンティブ」

 スタシアは、そこでペンを止めた。

「これは契約書に書けません」

 ジョニーの顔が曇る。

「それじゃ、彼に報いることができない」

「臨時調査対応費にします」

「臨時調査?」

「市場急変時の追加聞き取り対応。対応時間、緊急性、内容の特殊性に応じた追加調査費」

 また、メモに文字が増える。

「試用期間中の粗利に応じたボーナス。これも契約書には書けません」

「じゃあ」

「特別評価金」

 スタシアは即答した。

「調査協力の有用性、希少性、緊急対応性、継続調査の必要性を総合評価し、社長決裁により裁量で支払う」

 遼太郎は瞬きをしている。

 スタシアは、ペンを置いた。

「いかがですか。文句ありますか。これで飲めなきゃ、私は知りません」

 沈黙。

 円卓の上で、茶の湯気が細く揺れた。

 やがてジョニーが、深く息を吐いた。

 緊張の糸が切れたようだった。

 目元が赤い。

「それで問題ない」

 声が掠れていた。

 ジョニーは小さく頷いた。

「ありがとう。すまなかった」

 その拍子に、目尻から涙がひとつ落ちた。

 見なかったことにした。

 小柳の方に顔を向ける。

「小柳さん」

「は、はい」

「あなたは今から支店に戻って、稟議書を起こす準備をしてください。関係者に明日出てくるよう連絡。明日中に稟議を通します」

「明日中、ですか」

 小柳は額の汗を拭う。

「明後日にはマーケットが開くんです。寝言を言っている時間はありません」

 小柳は頷いた。

「分かりました。すぐ戻ります」

「お願いします」

 小柳は深く頭を下げ、足早に個室を出ていった。


 スタシアは次に猪原を見た。

「猪原」

「は、はい!」

 声が大きすぎた。

 猪原自身も驚いた顔をする。

「アンタは、この後戻ってくるご両親へ説明。一家を送り届けたら支店へ戻ってきて手伝いなさい」

「はい」

「明日中には契約書に起こす。月曜の朝には、この子の家に持っていって締結します。アポも取っておきなさい。」

「はい」

「それで、お前らのやったことはチャラにしてあげる」

 猪原の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。

 スタシアはそれを見逃さなかった。

「まともに寝られると思うな」

「はい!」

 猪原は深く頭を下げた。

 ジョニーへ視線を戻す。

「ジョニー・フィッチ代行」

「うん」

「猪原の説明を手伝ってやっていただけますか」

「もちろん」

 ジョニーは立ち上がりかけて、少しふらついた。

 椅子の背に手を置く。

 まだ顔色が悪い。

「スタシア。本当に、すまなかった」

「ご不安なんでしょう」

 スタシアは優しく言った。

「うまくいけば、月曜の午後には聞き取り調査できますよ」

 ジョニーの顔が歪んだ。

 堪えていたものが、そこで切れたらしい。

「ありがとう」

 小さな声だった。

「ありがとう、スタシア」

 涙が落ちる。

 次の一滴も落ちる。

 彼は慌てて目元を押さえたが、追いつかなかった。

 スタシアは、心底嫌そうな顔をした。

 泣くな。

 泣かれると、こちらが悪いみたいじゃない。

「では、私は支店に戻ります」

 誤魔化すように、踵を返す。

 その背中に、声がかかった。

「ありがとう」

 遼太郎だった。

 ロシア語だった。

 スタシアは足を止めた。

「侮ってたよ」

 振り返ると、遼太郎は椅子から降りていた。

 小さな身体で、深く頭を下げている。

 蝶ネクタイはまだ曲がっていた。

 スタシアは、鼻を鳴らした。

「ふん」

 ロシア語で返す。

「偉そうに」

 それだけ言って、個室を出た。

 廊下の空気は、個室より少し冷たかった。

 高級店の静けさが戻ってきた。



 淀屋橋の高層ビル群の窓には、冬の大阪が映っていた。

 車道は鈍く光り、歩道の人影はコートの襟を立てている。

 信号の赤が、湿った空気の中で滲んで見えた。

 スタシアが支店のあるビルへ戻ってきた時、PHSが鳴った。

 乾いた電子音。

 表示を見る。

 メリット・フィッチ。

 スタシアは、一瞬だけ目を閉じた。

 それから通話ボタンを押す。

「……ラマーノフです」

『スタシア。よくやった』

 電話の向こうの男は、上機嫌だった。

 腹が立つほど分かりやすい。

「おはようございます、社長。お加減はいかがですか」

 狸オヤジめ。

 仮病を使ってバイトを休む高校生かお前は。

『おかげさまで朝から元気溌剌だよ。君なら処理できると思っていた』

「処理しました。無理やりです」

 スタシアは、声を低くした。

「投資助言契約にはできません。アドバイザー契約にもできません。成果報酬も粗利連動も書けません。マーケティング調査協力という名目に落としました」

『見事だ』

「褒めていませんよね、それ」

『褒めているとも』

「でしたら、社長決裁はきちんとしてください」

『もちろん』

「もちろん、ではありません」

 スタシアはビルの入口で足を止めた。

 自動扉の向こうから、暖房の空気がわずかに漏れてくる。

 外気に触れた頬が冷えていた。

「私は無理な名目を立ててあげたんです。定例調査協力費。通信環境整備費。臨時調査対応費。特別評価金。全部、社長決裁が必要です」

『分かっている』

「いいえ、分かっていません」

 言葉が鋭くなる。

「契約書に利益率も粗利も一文字も入れません。ですが、金額は異常です。五歳児への調査協力費としては、頭がおかしい水準です」

『だから君が必要だった』

 スタシアは、こめかみを押さえた。

「次にこういう舐めた真似をしたら、契約書ではなく訴状を書きます」

『頼もしいね、スタシア』

「褒め言葉として受け取りません」

『この礼は必ずする。それで許してくれないか』

 下手に出てきた。

 ずるい男だ。

 声の出し方を知っている。

 どこまで踏み込み、どこで引けば人が動くかを知っている。

 スタシアは黙った。

「…本当に、タチが悪い」

『褒め言葉として受け取っておこう』

「受け取らないでください」

『では、また話そう。今日はお疲れさん』

 通話が切れた。

 PHSの小さな画面が、また無機質な表示に戻る。

 スタシアはしばらくそれを見ていた。

 それから、胸ポケットに手を当てる。

 ブローチの硬い感触がある。

 今日もママは、正しく生きた。

 正しく生きたはずだ。

 たぶん。

 かなり無理やりだけど。

 スタシアは、小さく息を吐いた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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更新ありがとうございます! スタシアさん、娘に会えんのかなー
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