第二節
ようやく泣き止んだ頃には、時計の針は十時を回っていた。
遼太郎は母に手を引かれながら居間へ向かった。
廊下の木目。
柱の傷。
古びた蛍光灯。
全部が懐かしい。
実家特有の、少し湿った木造家屋の匂いが鼻へ染みる。
居間では、ジャージ姿の父・剛三が新聞を広げていた。
スキンヘッドに口髭。
薄くなってきたことを気にして、剃り上げていた。
その姿を見た瞬間、遼太郎は妙な安心感を覚えた。
意外と変わっていない。
いや、違う。
未来の父から失われていた何かが、まだここにはあった。
威厳だった。
背筋の伸び方。
声を出さずとも家の空気を支配している感じ。
未来では、老いと疲労がそれを削り取っていた。
「大丈夫か?」
父が新聞を畳みながら言った。
心配が顔に出ていた。
「怖い夢見てたみたい」
母が笑いながら答える。
「可愛いよねぇ」
母は遼太郎の頬をなでる。
父の口元が少し緩んだ。
食卓には焼き鮭、味噌汁、卵焼きが並んでいた。
冷めてしまっているが、母の手料理だ。
その光景だけで、遼太郎は泣きそうになった。
こんな朝食を、もう長いこと食べていない。
コンビニの弁当や外食、栄養ゼリーばかりだった。
食卓に着くや否や父は言った。
「遼。お馬さん見たくないか?」
遼太郎は瞬きをした。
記憶が蘇る。
そうだ。
この頃、父は競馬に嵌っていた。
ここで確か。
『お馬さん怖い』
そう言って泣きながら拒否したらしい。
父が後年、酒の席で『競馬沼に引き込むチャンスだったのになぁ』と残念そうに語っていた記憶がある。
遼太郎は、にやりと笑った。
早速、親孝行だ。
「お馬さん! 見たい!」
父の表情が、ぱっと明るくなった。
「おぉ、そうか!」
今度は母へ向き直る。
「なぁ、4月の桜花賞、一緒に行かへんか」
「えぇ?」
「場所は仁川や。宝塚市やから近いやろ。ピクニックみたいなもんや」
どこから取り出したのか、競馬新聞を広げながら熱弁する父を、母は呆れたように見ていた。
「またお金ドブに捨てにいくだけやろ」
「いやいや家族サービスや」
「絶対違う」
「でも遼も行きたがっとるし」
その瞬間、父の視線が遼太郎へ向いた。母の視線も釣られる。
卑怯な視線誘導だった。
だが幼児の期待に満ちた目を前にすると、母は弱い。
「…まぁ、お馬さん見るだけなら」
「よっしゃ!」
父が拳を握る。
「ほな軍資金──」
「それは駄目」
「なんでや!」
朝の居間へ笑い声が響いた。
その時だった。
遼太郎の視線が、競馬新聞の一面へ止まる。
『第57回 桜花賞』
その文字を見た瞬間。
頭の中で火花が走った。
キョウエイマーチ。
一番人気。
2.6倍。
逃げ切り。
着順。
断片的な記憶が、映像のように浮かぶ。
「…は?」
遼太郎は硬直した。
何故分かる。
何故知ってる。
競馬の知識なんて大して無いのに。
ただ競馬新聞を見ただけなのに。
身に覚えのない知識が、勝手に降りてくる。
神様。まさか。
まさかこれ、知識チート付き転生なんか?
遼太郎は幼児とは思えない勢いで鼻息を荒くした。




