第三節
食卓の時間は、思っていたより長く感じられた。
焼き鮭の皮がぱちりと音を立てる。
温めなおした味噌汁から立ち上る湯気。
白米の甘い匂い。
どれも懐かしかった。
いや、懐かしいという言葉では軽すぎる気がした。
それは既に失われた景色だった。
父が競馬新聞を読みながら「最近の騎手は根性が足らん」とぼやき、母が「また始まった」と呆れながら麦茶を注ぐ。
そんな何気ないやり取りが、胸の奥を妙に締め付ける。
危うかった。
少し油断すると、また涙が出そうになる。
遼太郎は必死に白飯を口へ運んだ。
米が美味かった。
十一時頃。
遼太郎は自室へ戻っていた。
襖を閉めた瞬間、幼い身体の中で心臓がどくどくと暴れ始める。
「…いや待て待て待て」
座布団へ腰を下ろしながら、額を押さえた。
おかしい。
明らかにおかしい。
自分は転生した。
いや、タイムリープかもしれない。
その辺はまだ分からないし、どうでもいい。
問題はそこではなかった。
競馬新聞だ。
第57回桜花賞の文字を見た瞬間、脳内へ情報が流れ込んできた。
あれは何だ。
単なる記憶ではない。
映像と字面が、勝手に脳内へ展開された感覚だった。
遼太郎はごくりと唾を飲み込んだ。
「…知識チートだよな?」
思わず呟く。
その瞬間、胸が高鳴った。
もしそうなら。
もし本当に、未来知識を使えるなら。
人生が変わる。
いや、変えられる。
遼太郎は勢いよく立ち上がった。
「知識! 知識!」
当然、何も起こらない。
「ステータスオープン!」
沈黙。
「知識ウィンドウ!」
何も出ない。
「未来予測!」
静寂。
「アカシックレコード!」
障子の向こうから、母の笑い声が聞こえた。
「何してんのー?」
「っ!?」
遼太郎は飛び上がった。
振り返ると、廊下側から母が半分だけ顔を覗かせている。洗濯物を抱えたまま、面白そうにこちらを見ていた。
「魔法使いごっこ?楽しそうやねぇ」
くすくす笑いながら去っていく。
遼太郎は真っ赤になった。
「うわぁ…」
精神年齢三十四歳。
その中身で「ステータスオープン!」を連呼していた現実が、急激に羞恥として襲ってくる。
畳まれた布団へ突っ伏したくなった。
「…落ち着け俺」
深呼吸する。
考えろ。
なら、何か条件があるはずだ。
情報を引き出すには、トリガーが必要なのかもしれない。
遼太郎は壁の日めくりカレンダーへ視線を向けた。
立ち上がり、適当に紙をめくる。
ぱらり。
『3月25日』
「…この日起こる事件」
呟く。
「政治、経済でも…何でもええから」
その瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
『野村證券に対し、東京地方検察庁特捜部と証券取引等監視委員会が家宅捜索』
『山一證券』
文字列が脳裏へ浮かぶ。
「山一證券…」
聞いたことがある。
確か破綻した証券会社だった。
なぜ破綻した?
そう考えた瞬間、再び情報が流れ込む。
損失隠し。
飛ばし。
不正会計。
平成9年11月24日、自主廃業。
社長会見。
『社員は悪くありませんから』
断片的な映像と単語が、一気に頭へ押し寄せた。
「うぉっ…!」
遼太郎は頭を押さえた。
脳味噌へ無理矢理データを流し込まれるような感覚だった。
だが、理解はできる。
いや、完全には理解していない。
知識だけがある。
「なるほどな…」
遼太郎は息を吐いた。
「自分である程度考えなあかんタイプか」
万能辞典ではない。
こちらが問いを立てないと返ってこない。
しかもカテゴリに偏りがある。
「でもまぁ、そっちの方が助かるか…」
全部流れ込んできたら頭が壊れる。
必要な時だけ必要な知識。
そのくらいが丁度いい。
遼太郎は再びカレンダーへ視線を向けた。
「株価…」
脳裏へ念じる。
「山一證券破綻後のマーケット」
途端に数字の奔流が押し寄せた。
日経平均。
ドル円。
銀行株。
金融不安。
グラフのようなイメージが脳内を駆け巡る。
「うおお…」
さらに思いつく。
「Amazon」
次の瞬間、アメリカの株価チャートが浮かび上がった。
上場。
ITバブル。
暴落。
再上昇。
桁違いの時価総額。
「やっば…」
幼児の顔で、思わず引きつった笑みが浮かぶ。
「通貨…ドル円…」
出る。
「ビットコイン…」
意味不明な急騰チャートが出る。
「何やこれ怖っ!」
AIへプロンプトを投げるようにトリガーワードを投げると情報が山のように返ってくる。
だが、あることに気付いた。
「事件…」
9・11。
阪神淡路大震災。
単語を浮かべても、事件や災害の内容そのものは未来どころか過去すら出てこない。
ただし。
「…あ」
9・11後の株価。
航空株暴落。
原油。
金価格。
そういった“金の動き”だけは出てきた。
「なるほど」
遼太郎は頷いた。
「お金に関わる未来だけ見えるんか」
政治も試す。
「橋本龍太郎…次の総理」
小泉さんだっけ?あれ、森?
答えは返ってこない。
「政治は×っと」
芸能、流行。
ほぼ出ない。
芸能事務所やアパレル企業の株価チャートだけが返ってくる。
「なんやねんこの能力…」
だが同時に理解した。
この力は、世界を救うための能力ではない。
もっと俗っぽい。
もっと生臭い。
金の匂いがする能力だった。
「…いや待てよ」
そこで遼太郎は青ざめた。
これから、自分はまた小学校へ通う。
中学。
高校。
大学。
受験。
テスト。
「うわぁ…」
急激に頭が痛くなった。
「また勉強やん…」
三十四歳社畜の魂には重すぎる現実だった。
「お勉強知識とか無いんか!?」
半泣きで叫ぶ。
「数学! 数学とか!」
一番嫌いな教科だ。この知識はあってくれないと困る。
何かベンチマークとなるワードはないか。
「ポアンカレ予想!」
名前しか知らない、数学史上最大の難問の名前を出してみる。
Wikipediaに載っている内容くらいは教えてほしかった。
その瞬間。
脳が焼けた。
「っ――!?」
膨大な数式が、一気に流れ込んでくる。
記号。
関数。
幾何。
見たこともない式の群れ。
遼太郎は悲鳴を上げながら机へ飛びついた。
「うわ、うわうわうわ!」
クレヨンを掴む。
近くにあった画用紙へ、必死に数式を写し取る。
意味は分からない。
幼児の手で、震えながら書き殴る。
数分後。
ようやく情報の奔流が止まった。
「はぁっ…はぁっ…」
遼太郎は肩で息をした。
画用紙一面に、意味不明な数式が並んでいる。
結局、数式の一割も書き写せなかった。
もう一度始めから再生し、全文を書き写すこともできそうな気もした。
…せっかくの朝食を吐き出してしまいそうだったのでやめた。
「気持ち悪…」
頭がくらくらした。
理解はできない。
ただ、一番最後のQ.E.Dの文字が証明を完了したことを表していた。
知識だけが流れ込んでくる。
つまり。
「知識は引き出せる。でも理解できるかは本人の脳みそのスペック次第…」
遼太郎は畳へ倒れ込んだ。
「アホの頭はアホのまま。クソ仕様やんけ…」




