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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第三節

 食卓の時間は、思っていたより長く感じられた。

 焼き鮭の皮がぱちりと音を立てる。

 温めなおした味噌汁から立ち上る湯気。

 白米の甘い匂い。

 どれも懐かしかった。

 いや、懐かしいという言葉では軽すぎる気がした。

 それは既に失われた景色だった。

 父が競馬新聞を読みながら「最近の騎手は根性が足らん」とぼやき、母が「また始まった」と呆れながら麦茶を注ぐ。

 そんな何気ないやり取りが、胸の奥を妙に締め付ける。

 危うかった。

 少し油断すると、また涙が出そうになる。

 遼太郎は必死に白飯を口へ運んだ。

 米が美味かった。


 十一時頃。

 遼太郎は自室へ戻っていた。

 襖を閉めた瞬間、幼い身体の中で心臓がどくどくと暴れ始める。

「…いや待て待て待て」

 座布団へ腰を下ろしながら、額を押さえた。

 おかしい。

 明らかにおかしい。

 自分は転生した。

 いや、タイムリープかもしれない。

 その辺はまだ分からないし、どうでもいい。

 問題はそこではなかった。

 競馬新聞だ。

 第57回桜花賞の文字を見た瞬間、脳内へ情報が流れ込んできた。

 あれは何だ。

 単なる記憶ではない。

 映像と字面が、勝手に脳内へ展開された感覚だった。

 遼太郎はごくりと唾を飲み込んだ。

「…知識チートだよな?」

 思わず呟く。

 その瞬間、胸が高鳴った。

 もしそうなら。

 もし本当に、未来知識を使えるなら。

 人生が変わる。

 いや、変えられる。

 遼太郎は勢いよく立ち上がった。

「知識! 知識!」

 当然、何も起こらない。

「ステータスオープン!」

 沈黙。

「知識ウィンドウ!」

 何も出ない。

「未来予測!」

 静寂。

「アカシックレコード!」

 障子の向こうから、母の笑い声が聞こえた。

「何してんのー?」

「っ!?」

 遼太郎は飛び上がった。

 振り返ると、廊下側から母が半分だけ顔を覗かせている。洗濯物を抱えたまま、面白そうにこちらを見ていた。

「魔法使いごっこ?楽しそうやねぇ」

 くすくす笑いながら去っていく。

 遼太郎は真っ赤になった。

「うわぁ…」

 精神年齢三十四歳。

 その中身で「ステータスオープン!」を連呼していた現実が、急激に羞恥として襲ってくる。

 畳まれた布団へ突っ伏したくなった。

「…落ち着け俺」

 深呼吸する。

 考えろ。

 なら、何か条件があるはずだ。

 情報を引き出すには、トリガーが必要なのかもしれない。

 遼太郎は壁の日めくりカレンダーへ視線を向けた。

 立ち上がり、適当に紙をめくる。

 ぱらり。

『3月25日』

「…この日起こる事件」

 呟く。

「政治、経済でも…何でもええから」

 その瞬間だった。

 頭の奥で、何かが弾けた。

『野村證券に対し、東京地方検察庁特捜部と証券取引等監視委員会が家宅捜索』

『山一證券』

 文字列が脳裏へ浮かぶ。

「山一證券…」

 聞いたことがある。

 確か破綻した証券会社だった。

 なぜ破綻した?

 そう考えた瞬間、再び情報が流れ込む。

 損失隠し。

 飛ばし。

 不正会計。

 平成9年11月24日、自主廃業。

 社長会見。

『社員は悪くありませんから』

 断片的な映像と単語が、一気に頭へ押し寄せた。

「うぉっ…!」

 遼太郎は頭を押さえた。

 脳味噌へ無理矢理データを流し込まれるような感覚だった。

 だが、理解はできる。

 いや、完全には理解していない。

 知識だけがある。

「なるほどな…」

 遼太郎は息を吐いた。

「自分である程度考えなあかんタイプか」

 万能辞典ではない。

 こちらが問いを立てないと返ってこない。

 しかもカテゴリに偏りがある。

「でもまぁ、そっちの方が助かるか…」

 全部流れ込んできたら頭が壊れる。

 必要な時だけ必要な知識。

 そのくらいが丁度いい。

 遼太郎は再びカレンダーへ視線を向けた。

「株価…」

 脳裏へ念じる。

「山一證券破綻後のマーケット」

 途端に数字の奔流が押し寄せた。

 日経平均。

 ドル円。

 銀行株。

 金融不安。

 グラフのようなイメージが脳内を駆け巡る。

「うおお…」

 さらに思いつく。

「Amazon」

 次の瞬間、アメリカの株価チャートが浮かび上がった。

 上場。

 ITバブル。

 暴落。

 再上昇。

 桁違いの時価総額。

「やっば…」

 幼児の顔で、思わず引きつった笑みが浮かぶ。

「通貨…ドル円…」

 出る。

「ビットコイン…」

 意味不明な急騰チャートが出る。

「何やこれ怖っ!」

 AIへプロンプトを投げるようにトリガーワードを投げると情報が山のように返ってくる。

 だが、あることに気付いた。

「事件…」

 9・11。

 阪神淡路大震災。

 単語を浮かべても、事件や災害の内容そのものは未来どころか過去すら出てこない。

 ただし。

「…あ」

 9・11後の株価。

 航空株暴落。

 原油。

 金価格。

 そういった“金の動き”だけは出てきた。

「なるほど」

 遼太郎は頷いた。

「お金に関わる未来だけ見えるんか」

 政治も試す。

「橋本龍太郎…次の総理」

 小泉さんだっけ?あれ、森?

 答えは返ってこない。

「政治は×っと」

 芸能、流行。

 ほぼ出ない。

 芸能事務所やアパレル企業の株価チャートだけが返ってくる。

「なんやねんこの能力…」

 だが同時に理解した。

 この力は、世界を救うための能力ではない。

 もっと俗っぽい。

 もっと生臭い。

 金の匂いがする能力だった。

「…いや待てよ」

 そこで遼太郎は青ざめた。

 これから、自分はまた小学校へ通う。

 中学。

 高校。

 大学。

 受験。

 テスト。

「うわぁ…」

 急激に頭が痛くなった。

「また勉強やん…」

 三十四歳社畜の魂には重すぎる現実だった。

「お勉強知識とか無いんか!?」

 半泣きで叫ぶ。

「数学! 数学とか!」

 一番嫌いな教科だ。この知識はあってくれないと困る。

 何かベンチマークとなるワードはないか。

「ポアンカレ予想!」

 名前しか知らない、数学史上最大の難問の名前を出してみる。

 Wikipediaに載っている内容くらいは教えてほしかった。

 その瞬間。

 脳が焼けた。

「っ――!?」

 膨大な数式が、一気に流れ込んでくる。

 記号。

 関数。

 幾何。

 見たこともない式の群れ。

 遼太郎は悲鳴を上げながら机へ飛びついた。

「うわ、うわうわうわ!」

 クレヨンを掴む。

 近くにあった画用紙へ、必死に数式を写し取る。

 意味は分からない。

 幼児の手で、震えながら書き殴る。

 数分後。

 ようやく情報の奔流が止まった。

「はぁっ…はぁっ…」

 遼太郎は肩で息をした。

 画用紙一面に、意味不明な数式が並んでいる。

 結局、数式の一割も書き写せなかった。

 もう一度始めから再生し、全文を書き写すこともできそうな気もした。

 …せっかくの朝食を吐き出してしまいそうだったのでやめた。

「気持ち悪…」

 頭がくらくらした。

 理解はできない。

 ただ、一番最後のQ.E.Dの文字が証明を完了したことを表していた。

 知識だけが流れ込んでくる。

 つまり。

「知識は引き出せる。でも理解できるかは本人の脳みそのスペック次第…」

 遼太郎は畳へ倒れ込んだ。

「アホの頭はアホのまま。クソ仕様やんけ…」

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