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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第一節

 電子音だった。

 耳障りな目覚まし時計のアラームが、頭の奥を叩くように鳴っている。

 遼太郎は眉を顰めた。

 酷く重たい眠りの底から、無理矢理引きずり上げられる感覚だった。

 信号待ち。

 ふいに脳裏へ、断片が蘇る。

 交差点。買い物袋。赤信号。背後から聞こえた悲鳴。振り返った瞬間、真正面から迫ってきた白いヘッドライト。

 そこで記憶は途切れていた。

「…ぁ…?」

 喉から掠れた声が漏れる。

 妙だった。

 目を閉じたままでも分かる。

 空気が違う。

 さっきまでの湿ったコンクリートと排気ガスの臭いではない。もっと乾いた、古い家の匂いだった。

 畳の匂い。

 防虫剤の樟脳。

 布団の匂い。

 それらが混ざった空気を吸い込んだ瞬間、遼太郎の胸がざわついた。

 懐かしい。

 懐かしすぎる。

 ゆっくりと目を開ける。

 視界に飛び込んできた木目の天井を見た瞬間、遼太郎の呼吸が止まった。

「…は?」

 実家だった。

 東大阪市内、町工場群のはずれにある、築十数年の一戸建て。

 子供の頃から見慣れていた天井の染みまで、そのまま残っている。

 意味が分からない。

 さっきまで自分は東京にいた。

 来週分の買い出しに出ていたはずだ。

 思考が上手くまとまらない。

 頭の芯がまだ眠っているようだった。

 遼太郎は布団の中から腕を出した。

 そこで、再び思考が止まる。

「…なんや、これ」

 手が小さい。

 丸い。

 指が短い。

 三十四歳の、脂肪と疲労でむくんだ男の手ではなかった。

 白く、ぷにぷにしている。

 幼児の手だった。

 遼太郎は飛び起きた。

 布団がばさりと音を立てる。

 視界の端に、黄色いものが映った。

 当時流行ったキャラクターのぬいぐるみだった。

 五歳の誕生日に親に買ってもらったものだ。

 アニメ版と違い、初代のでっぷりとしたフォルム。昔は毎日抱いて寝ていた記憶がある。

「なんで…」

 思わず呟く。

 そのぬいぐるみは、中学生へ上がる頃に処分したはずだった。

 ダニが酷くなって、泣く泣く捨てたのを覚えている。

 遼太郎は部屋を見回した。

 机。

 本棚。

 携帯型ゲーム機。

 恐竜図鑑。

 玩具箱。

 どれも見覚えがある。

 だが妙だった。

 部屋がやけに広い。

 いや、違う。

 自分が小さいのだ。

「え…え…?」

 頬を触る。

 腹を触る。

 顎を撫でる。

 どこにも贅肉がない。

 無精髭もない。

 もちのような張りのある肌しかない。

 星柄のパジャマのズボン、パンツもめくって覗き込む。

 お子様だった。

 混乱したまま視線を横へ向ける。

 壁に掛けられた日めくりカレンダー。

 そこに印刷された数字を見た。

『1997年3月15日』

 頭が真っ白になった。

 転生。

 タイムリープ。

 アニメや漫画でお馴染みの設定。

 だが、あくまで創作。現実感がなかった。

 自分の身へ起きるなど、考えたこともない。

 いや、あったら良いなとは思ったことはあるか。

「なんやこれ…夢…?」

 だが匂いがある。

 畳のざらつきがある。

 布団の温度がある。

 夢にしては、生々しすぎた。

 その時だった。

「ご飯できたよー?」

 声がした。

 遼太郎の身体がびくりと震える。

 襖が開いた。

 そこに立っていた人物を見た瞬間、遼太郎は息を呑んだ。

「…おかん」

 若かった。

 記憶の中より、ずっと。

 茶色く染めたポニーテール。健康的に焼けた肌。剣道着ではなくエプロン姿だったが、それでも立ち姿に妙な迫力がある。

 全盛期の母だ。

 まだ病に侵される前。

 竹刀を振り、府大会で優勝した直後の頃。

 痩せ細った母ではなかった。

「どしたん? 寝ぼけてる?」

 遼太郎は、気付けば母の足元までふらふらと歩みだしていた。

 そのまま母の足へしがみつく。

 温かかった。

 肉がある。

 骨ばっていない。

「うわっ、どしたん遼ちゃん」

 涙が溢れた。

 止まらなかった。

「うぇ…っ、ぅぅ…!」

 母は驚いた顔をした後、すぐにしゃがみ込んだ。

 そして片腕だけで遼太郎を軽々と抱き上げる。

 強かった。

 身体の芯に力がある。

 病床でペットボトルの蓋すら苦労して開けていた母なのに。

「怖い夢でも見たん?」

 胸へ抱き寄せられる。

 柔軟剤と汗の匂いがした。

 その懐かしさに、遼太郎は余計に泣いた。

 戻ってきた。

 戻ってきてしまった。

 幸せの時代に。

 ただ確かなのは、この時代は長く続かないということだった。

 この先、10年内に母は病に倒れる。

 瘦せ細り、竹刀すら満足に握れなくなる。

 笑顔の裏で痛みに耐えるようになる。

 だが今なら、まだ。

 ――今すぐ病院へ。

 喉元まで言葉が出かかった。

 しかし寸前で理性が止めた。

 まだ罹患する前だ。

 今病院へ行ったところで、何も見つからないだろう。

 子供の戯言として終わるだけだ。

「ぅ…お、おかんが…」

「ん?」

「悪い病気になる夢…見てん…」

 母は一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。

 菩薩のような顔だった。

「そっかぁ。優しいねぇ遼ちゃん」

 頭を撫でられる。

 大きな手だった。

 剣道で鍛えた節くれだった指が、幼い頭を優しく撫でる。

 遼太郎はその膝の上で、ぼんやりと考えた。

 おそらく自分は死んだのだろう。

 だから戻ってきた。

 理由は分からない。

 神様の気まぐれかもしれない。

 だがもし、この人生が仮初めだったとしても。

 幸せな時代で親孝行する時間を貰えたのなら。

 それだけでも良かった。

 糞みたいな仕事。

 糞みたいな世の中。

 息苦しいだけだった未来。

 未練なんて。

 そこまで考えて、胸が痛んだ。

 有理。

 遼太郎は目を閉じた。

 あいつ、泣いてるやろな。

 あの優しい顔を歪めて。

 きっと、自分のことで。

 その光景を想像した瞬間、胸の奥から強烈な罪悪感が込み上げてきた。

「ぅ…ぁ…」

「えぇっ!? まだ怖いの!?」

 再び泣き出した遼太郎を、母は困ったように抱き締めた。

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