第一節
電子音だった。
耳障りな目覚まし時計のアラームが、頭の奥を叩くように鳴っている。
遼太郎は眉を顰めた。
酷く重たい眠りの底から、無理矢理引きずり上げられる感覚だった。
信号待ち。
ふいに脳裏へ、断片が蘇る。
交差点。買い物袋。赤信号。背後から聞こえた悲鳴。振り返った瞬間、真正面から迫ってきた白いヘッドライト。
そこで記憶は途切れていた。
「…ぁ…?」
喉から掠れた声が漏れる。
妙だった。
目を閉じたままでも分かる。
空気が違う。
さっきまでの湿ったコンクリートと排気ガスの臭いではない。もっと乾いた、古い家の匂いだった。
畳の匂い。
防虫剤の樟脳。
布団の匂い。
それらが混ざった空気を吸い込んだ瞬間、遼太郎の胸がざわついた。
懐かしい。
懐かしすぎる。
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできた木目の天井を見た瞬間、遼太郎の呼吸が止まった。
「…は?」
実家だった。
東大阪市内、町工場群のはずれにある、築十数年の一戸建て。
子供の頃から見慣れていた天井の染みまで、そのまま残っている。
意味が分からない。
さっきまで自分は東京にいた。
来週分の買い出しに出ていたはずだ。
思考が上手くまとまらない。
頭の芯がまだ眠っているようだった。
遼太郎は布団の中から腕を出した。
そこで、再び思考が止まる。
「…なんや、これ」
手が小さい。
丸い。
指が短い。
三十四歳の、脂肪と疲労でむくんだ男の手ではなかった。
白く、ぷにぷにしている。
幼児の手だった。
遼太郎は飛び起きた。
布団がばさりと音を立てる。
視界の端に、黄色いものが映った。
当時流行ったキャラクターのぬいぐるみだった。
五歳の誕生日に親に買ってもらったものだ。
アニメ版と違い、初代のでっぷりとしたフォルム。昔は毎日抱いて寝ていた記憶がある。
「なんで…」
思わず呟く。
そのぬいぐるみは、中学生へ上がる頃に処分したはずだった。
ダニが酷くなって、泣く泣く捨てたのを覚えている。
遼太郎は部屋を見回した。
机。
本棚。
携帯型ゲーム機。
恐竜図鑑。
玩具箱。
どれも見覚えがある。
だが妙だった。
部屋がやけに広い。
いや、違う。
自分が小さいのだ。
「え…え…?」
頬を触る。
腹を触る。
顎を撫でる。
どこにも贅肉がない。
無精髭もない。
もちのような張りのある肌しかない。
星柄のパジャマのズボン、パンツもめくって覗き込む。
お子様だった。
混乱したまま視線を横へ向ける。
壁に掛けられた日めくりカレンダー。
そこに印刷された数字を見た。
『1997年3月15日』
頭が真っ白になった。
転生。
タイムリープ。
アニメや漫画でお馴染みの設定。
だが、あくまで創作。現実感がなかった。
自分の身へ起きるなど、考えたこともない。
いや、あったら良いなとは思ったことはあるか。
「なんやこれ…夢…?」
だが匂いがある。
畳のざらつきがある。
布団の温度がある。
夢にしては、生々しすぎた。
その時だった。
「ご飯できたよー?」
声がした。
遼太郎の身体がびくりと震える。
襖が開いた。
そこに立っていた人物を見た瞬間、遼太郎は息を呑んだ。
「…おかん」
若かった。
記憶の中より、ずっと。
茶色く染めたポニーテール。健康的に焼けた肌。剣道着ではなくエプロン姿だったが、それでも立ち姿に妙な迫力がある。
全盛期の母だ。
まだ病に侵される前。
竹刀を振り、府大会で優勝した直後の頃。
痩せ細った母ではなかった。
「どしたん? 寝ぼけてる?」
遼太郎は、気付けば母の足元までふらふらと歩みだしていた。
そのまま母の足へしがみつく。
温かかった。
肉がある。
骨ばっていない。
「うわっ、どしたん遼ちゃん」
涙が溢れた。
止まらなかった。
「うぇ…っ、ぅぅ…!」
母は驚いた顔をした後、すぐにしゃがみ込んだ。
そして片腕だけで遼太郎を軽々と抱き上げる。
強かった。
身体の芯に力がある。
病床でペットボトルの蓋すら苦労して開けていた母なのに。
「怖い夢でも見たん?」
胸へ抱き寄せられる。
柔軟剤と汗の匂いがした。
その懐かしさに、遼太郎は余計に泣いた。
戻ってきた。
戻ってきてしまった。
幸せの時代に。
ただ確かなのは、この時代は長く続かないということだった。
この先、10年内に母は病に倒れる。
瘦せ細り、竹刀すら満足に握れなくなる。
笑顔の裏で痛みに耐えるようになる。
だが今なら、まだ。
――今すぐ病院へ。
喉元まで言葉が出かかった。
しかし寸前で理性が止めた。
まだ罹患する前だ。
今病院へ行ったところで、何も見つからないだろう。
子供の戯言として終わるだけだ。
「ぅ…お、おかんが…」
「ん?」
「悪い病気になる夢…見てん…」
母は一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
菩薩のような顔だった。
「そっかぁ。優しいねぇ遼ちゃん」
頭を撫でられる。
大きな手だった。
剣道で鍛えた節くれだった指が、幼い頭を優しく撫でる。
遼太郎はその膝の上で、ぼんやりと考えた。
おそらく自分は死んだのだろう。
だから戻ってきた。
理由は分からない。
神様の気まぐれかもしれない。
だがもし、この人生が仮初めだったとしても。
幸せな時代で親孝行する時間を貰えたのなら。
それだけでも良かった。
糞みたいな仕事。
糞みたいな世の中。
息苦しいだけだった未来。
未練なんて。
そこまで考えて、胸が痛んだ。
有理。
遼太郎は目を閉じた。
あいつ、泣いてるやろな。
あの優しい顔を歪めて。
きっと、自分のことで。
その光景を想像した瞬間、胸の奥から強烈な罪悪感が込み上げてきた。
「ぅ…ぁ…」
「えぇっ!? まだ怖いの!?」
再び泣き出した遼太郎を、母は困ったように抱き締めた。




