30 逃げ足は速い
カウンターで突っ伏している私を気遣いながら、
「師匠、師匠、では、“い”も教えていただけますか?」
ケンちゃん、実はノリノリだった。
さすが、読書家。知識欲が半端ない。
私はノックアウト寸前なのに。
「まだやるの!? いや、もちろんやりますけど!!」
私はガバッと勢いよく顔を上げ、紙を引き寄せる。
「“い”はね、こう! こう書くの!」
すっ......すっ。
「はい、“い”!!」
ケンちゃんはまた真剣に紙を覗き込んだ。
「......これは!!二本の細い塔......?」
「塔じゃないよ!! ひらがなの"い"だよ!!」
「ひらがなの"い"......。では、この二本の塔は“心が並び立つ”象徴となるわけですね」
「なんでそうなる!?象徴じゃないって!!」
独自の見解を押し通すの一旦やめて!
犬モンたちは、もはや完全に寝たふりをやめ、
“これはもう止められない”という悟りの表情で見守っている。
ケンちゃんはさらに眉を寄せ、真剣に考え込んだ。
「師匠、“あ”は渦で、“い”は塔となるというわけですね。なるほど、”日本語”とは、非常に奥深いのですね......」
「違うよ!? そんな説明ひとっ言もしてないよ!?」
私は頭を抱えて思わず叫んだ。
その瞬間だった。
ケンちゃんの周りの空気が、
バチンッと灰色の揺らぎを弾かせ、細かく震えた。
熱を持った灰色の粒子が広がって、犬モンたちが一斉に飛び上がる。
ケンちゃんはびくっと肩を震わせ、胸を押さえた。
「し、師匠、すみません......!僕、なにか間違えましたか?す、すみません。どうして......え、なぜ急にこんな......」
ケンちゃんのその声は震えていた。
焦りと、羞恥心と、自己嫌悪が入り混じったような声だった。
私はサッと周囲を見渡し、影響が出てないか確認した。
ひとまず問題なさそうだった。
「ケンちゃん、ストップ!! 深呼吸!!
今のはケンちゃんが何か間違えたからじゃなくて、私の大きな声に気持ちがびくっと揺れたせいだと思う。
私が、あんな大声で”違うよ”っていったからだよね、びっくりしたよね、ごめんね」
ケンちゃんはまだ胸に手を当てたまま、息を乱している。
「す、すみません師匠。僕......またご迷惑を......」
「全然迷惑かけてないから大丈夫。 ケンちゃんもびっくりしたよね!でも、今みたいに気持ちが動いたときに魔力が反応しちゃうのは危ないからね。
これからはその反応を少しずつ落ち着かせる練習をしていこうよ。だいじょうぶ、ケンちゃんはみー君ともうお友達だもんね!
それにね、もし"間違えた"のだとしても、それは悪いことや恥ずかしいことではないんだよ。
特に子どものうちは、たくさんの間違いを繰り返すことで"正しい"ことを知るんだよ。間違えないと正しいことを知らないまま大人になって、そっちの方がもっとやっかいなんだから。
だから、間違いはチャンスだと思っておそれないでね」
とはいえ、今のは“偶然の揺らぎ”じゃなく、
感情に引っ張られて魔力が大きく揺れた、明確なサインだ。
でも、これはある意味いい傾向かもしれない。
これをコントロールできるようになればいいんだから。
私は、そう自分に言い聞かせた。
大丈夫。みー君は友達だ。
語学勉強どころじゃない。
私は紙とペンをぽーいと放り出し、ケンちゃんに向き合った。
「よし、語学勉強は一旦中断!
今の"感情"と"魔力"の揺れを"落ち着かせる”練習に切り替えます!」
ケンちゃんは真剣に頷いた。
ケンちゃんはみー君とお友達なの?
麻美、勉強からまんまと逃げたな




