『温室の大掃除』
「シフお嬢様!」
朝食を終えたところで、おばあちゃんがやってきた。
「なあに?」
「本日は、温室の大掃除をいたします!」
……。
シフは、手にしていたカップを置いた。
「大掃除?」
「ええ!」
「昨日もお掃除していたでしょう?」
「昨日は普通のお掃除でございます」
「……」
「今日は大掃除ですの!」
……。
おばあちゃんは、たいそう張り切っていた。
白いブラウス。
紺色のエプロン。
きれいにまとめた髪。
そして、なぜか両手に軍手。
「……何をするつもり?」
「まずは、棚を全部動かそうと思いまして」
「全部?」
「ええ!」
……。
シフは、少し考えた。
「パパには話したの?」
「もちろんでございます」
「何て?」
「たいそう喜んでくださいましたわ」
……。
……。
嫌な予感がした。
*
温室へ行くと、パパが大きな鉢植えを抱えていた。
「ああ、シフ。おはよう!」
「おはよう、パパ」
「今日は大掃除だそうだよ」
「……そうみたいね」
「いやあ、ありがたいことだ」
パパは嬉しそうだった。
「ずっと動かしていなかった棚もあるからねえ」
「……そうね」
「鉢の下も、きれいにしてもらえるらしい」
……。
シフは、温室の床を見た。
棚の脚。
植木鉢。
古い配管。
その下に隠れた、かつてのDOCONANI1号機の構造。
……。
もちろん、パパにはそんな記憶はない。
今のパパにとって、ここは大切な植物の温室。
それだけだった。
「でも、パパ」
「何だい?」
「棚を動かすなら、植物を傷めないようにしないと」
「もちろん!」
パパは大きく頷いた。
「だから、僕も手伝うことにしたんだ」
……。
シフは、少し安心した。
ところが。
「おばあちゃんがね、僕は鉢の移動だけ担当すればいいと言ってくれて」
「……」
「棚の下の細かいところは、全部引き受けてくれるそうだよ」
……。
……。
シフは目を閉じた。
この人。
本当に、何をしに来たのだろう。
*
「では、始めましょう!」
おばあちゃんが号令をかけた。
……。
号令?
家政婦さんが?
「鳶辰郎さま、こちらの鉢をお願いいたします」
「はいはい」
「シフお嬢様は、そちらの小さな鉢を」
「ええ」
「私は棚の下を確認いたしますので」
……。
確認?
「おばあちゃん」
「はい?」
「何を確認するの?」
「あら」
おばあちゃんは、にっこり笑った。
「埃でございますよ」
……。
埃。
……。
確かに、あるでしょうね。
「それから、隙間に落ちたものなども」
「……」
「長年お掃除していない場所には、思いがけないものが隠れていることがございますから」
……。
思いがけないもの。
シフは、おばあちゃんを見た。
おばあちゃんも、シフを見た。
「……そうね」
「ええ」
……。
二人は、微笑んだ。
*
最初の棚が動かされた。
おばあちゃんは、すぐに床へしゃがみ込んだ。
「まあまあ!」
……。
「どうしたの?」
シフが近づいた。
「こんなところまで、埃が!」
……。
おばあちゃんは、細いブラシを取り出した。
棚の脚が立っていた場所を、丁寧に掃き始める。
……。
いや。
掃いているというより。
何かの境目を確かめているようにも見える。
「おばあちゃん」
「はい?」
「そこ、ずいぶん念入りね」
「ええ。こういう隅っこが大事でございますから」
「……」
「特に、継ぎ目のところは」
……。
継ぎ目。
シフは、その言葉を聞き逃さなかった。
「どうして?」
「あら?」
「継ぎ目が、どうかしたの?」
おばあちゃんは、少し考えた。
「……」
「……」
「埃が溜まりやすいでしょう?」
……。
……。
そうだった。
この人に質問すると、必ず話が掃除に戻る。
*
「おや?」
パパが声を上げた。
「どうしたの、パパ?」
「この鉢、少し根が伸びすぎているようだね」
……。
パパは、大きな観葉植物の鉢を見ていた。
「植え替えた方がいいかもしれないなあ」
「そう」
「ちょうどいい機会だ。根の状態も見てみよう」
……。
パパは楽しそうだ。
おばあちゃんも楽しそうだ。
……。
シフだけが、まったく楽しくなかった。
*
昼前。
温室の奥の棚が、とうとう動かされた。
そこは、シフも普段あまり触らない場所だった。
古い金属の支柱。
床の小さな段差。
植物の根が入り込んだ隙間。
……。
おばあちゃんは、ぴたりと動きを止めた。
「……あら」
シフは、その声を聞いた。
「何か見つかった?」
「ええ」
……。
おばあちゃんは、ゆっくりしゃがんだ。
床の段差に指を沿わせる。
「……これ」
……。
シフは、息をひそめた。
「何?」
「ずいぶん丈夫な造りですこと」
……。
「……そうね」
「普通の温室とは、少し違うような」
……。
シフは、おばあちゃんを見た。
おばあちゃんは、床を見つめている。
「……どういう意味?」
静かに尋ねた。
「まあ、私、建物には詳しくございませんけれど」
「……」
「何だか、船底のようにも見えますわねえ」
……。
……。
シフの心臓が、どきりとした。
「……船底?」
「ええ」
おばあちゃんは、にっこり笑った。
「昔、見たことがございますの」
「……どこで?」
「さあ、どこでしたかしら」
……。
……。
まただ。
シフは、黙って床を見た。
……。
この人。
やっぱり知っている。
*
「おーい!」
パパが呼んだ。
「どうしたの?」
シフが振り向いた。
「ちょっと来てごらん!」
……。
パパは、大きな鉢を持ち上げていた。
「これを見てくれ」
……。
鉢の底から、細い根が何本も伸びていた。
「ずいぶん元気だろう?」
「……そうね」
「こんな小さな隙間から、よくここまで伸びたものだ」
……。
パパは、感心していた。
シフも、ちょっと感心した。
……。
でも。
その隣では、おばあちゃんが床の隙間を調べている。
……。
どうして、こうなるのだろう。
*
午後。
僕とミルが巣空邸へ行くと、温室の前に大きな鉢が並んでいた。
「……何これ?」
僕は、思わず立ち止まった。
「大掃除ですって!」
ミルが言った。
「へえ」
「シフも手伝ってるみたい」
……。
温室の中へ入る。
そこには、すごい光景が広がっていた。
棚が動かされている。
植木鉢が並べ替えられている。
床には掃除道具。
……。
そして。
「シフ!」
僕が呼ぶと、シフが振り返った。
「あら、イユ」
「大変そうだね」
「ええ」
……。
シフは、妙に疲れた顔をしていた。
「どうしたの?」
「……ちょっとね」
……。
その時。
「あらまあ!」
おばあちゃんが現れた。
「曾礼くん! ミルさん!」
「こんにちは!」
「ちょうどよかったですわ!」
……。
……。
ちょうどよかった?
僕は、少し嫌な予感がした。
「何かお手伝いしましょうか?」
ミルが尋ねた。
「まあ、ありがとうございます!」
……。
おばあちゃんの目が輝いた。
「では、こちらの棚をお願いできますか?」
……。
……。
ミル。
余計なことを言ったかもしれない。
*
僕たちは、棚を動かすことになった。
中の鉢を全部出して。
軽くして。
床を傷つけないように、少しずつ。
「せーの!」
……。
ずずず。
……。
「あれ?」
僕は、手を止めた。
「どうしたの?」
ミルが尋ねた。
「何か、引っかかってる」
……。
棚の脚が、床の小さな出っ張りに当たっているらしい。
「ちょっと待って」
シフが近づいてきた。
……。
床を見た。
……。
その顔が、一瞬変わった。
「……イユ」
「何?」
「そこは、無理に動かさないで」
「え?」
「そのままでいいわ」
……。
……。
僕は、棚を支えたまま止まった。
「どうして?」
「……」
シフは、少し考えた。
「床を傷つけるといけないから」
……。
……。
そうか。
それなら、仕方ない。
*
「あらまあ!」
おばあちゃんが、また声を上げた。
「どうなさいました?」
「ちょっと引っかかってて」
僕が答えた。
「ああ、そうでしたか」
……。
おばあちゃんは、床を見た。
……。
そして。
「なるほど」
……。
なるほど?
「何か、わかったんですか?」
僕が尋ねると、おばあちゃんは、にっこり笑った。
「こういう時は、無理をしてはいけませんわね」
「……」
「別の方向から動かしてみましょうか」
……。
……。
シフが、すぐに口を開いた。
「おばあちゃん」
「はい、シフお嬢様」
「今日は、そこまでにしましょう」
「……」
「もう十分きれいになったわ」
……。
おばあちゃんは、しばらくシフを見た。
そして。
「まあ、そうですわねえ」
……。
あっさり頷いた。
「では、こちらはまた後日にいたしましょう」
……。
……。
シフは、ほっとした。
……。
ように見えた。
*
「皆さま、お疲れさまでした!」
おばあちゃんが、手を叩いた。
「今日は、ずいぶんお仕事が進みましたわ!」
……。
……。
お仕事。
……。
僕は、温室を見回した。
確かに、きれいになっている。
でも。
途中まで動かされた棚が、いくつも残っていた。
「これ、元に戻さなくていいんですか?」
僕が尋ねると、おばあちゃんは、にっこり笑った。
「明日、続きをいたしますので」
……。
……。
明日も?
「ええ」
おばあちゃんは、嬉しそうに答えた。
「まだまだ、お掃除したいところがございますの」
……。
……。
この人。
どれだけ掃除が好きなんだ。
*
夕方。
僕とミルが帰ったあと。
シフは、もう一度温室へ戻った。
誰もいない。
棚の位置は、少し変わっている。
鉢植えも、並び替えられている。
……。
シフは、昼間の場所へ近づいた。
床の出っ張り。
古い金属の支柱。
……。
その奥。
……。
ここは。
かつてのDOCONANI1号機の構造の一部だった。
……。
シフは、そっと指を触れた。
……。
何も起きない。
……。
もう一度、触れた。
……。
やはり、何も起きない。
「……」
シフは、ゆっくり立ち上がった。
……。
その時だった。
「シフお嬢様?」
……!
振り向くと、おばあちゃんが立っていた。
「まあ、まだこちらに?」
「……ええ」
「お疲れでしょう?」
「大丈夫よ」
「お茶をお持ちしましょうか?」
「結構よ」
……。
おばあちゃんは、にっこり笑った。
「では、明日もよろしくお願いいたしますね」
「……」
……。
シフは、ゆっくり尋ねた。
「おばあちゃん」
「はい?」
「明日は、どこをお掃除するつもり?」
……。
おばあちゃんは、少し考えた。
「そうですわねえ」
……。
温室の奥を見た。
……。
そして。
「まだ手をつけていない場所が、ひとつございますでしょう?」
……。
……。
シフは、目を細めた。
「……どこ?」
おばあちゃんは、にっこり笑った。
「床の下でございます」
……。
……。
シフは、黙った。
おばあちゃんも、黙った。
……。
温室の中で、小さな蝶が一匹、飛び立った。
*
その頃。
パパは、庭で鉢植えの手入れをしていた。
「いやあ、今日はよく働いたなあ」
……。
きれいになった温室を見上げる。
「それにしても、あの家政婦さんは熱心な人だねえ」
……。
パパは、にこにこと笑った。
「棚の下も、床の隙間も、あんなに丁寧に調べてくれて」
……。
しばらく考えた。
「そういえば、あの辺り」
……。
温室の奥を見た。
「昔、何か大きな装置でも置いてあったような……」
……。
……。
パパは、首を傾げた。
「……気のせいかな」
そして、また鉢植えに向き直った。
「さて、明日は植え替えをしよう」
……。
……。
巣空鳶辰郎氏。
今日も、植物のことで明け暮れた。




