『家政婦の勤務時間』
「イユル。十分前には着くぞ」
セイジが言った。
「うん」
「調査対象に、こちらが何を調べたいのか
悟られないようにする」
「うん」
「質問は事前に決めた順序で行う」
「うん」
「余計なことは聞くな」
「……うん」
僕は、隣を歩くミルを見た。
ミルは笑いをこらえていた。
……。
セイジ。
いつから探偵になったんだろう。
「それから」
まだあるのか。
「今回は、あの家政婦さんがどこまで知っているかを
確かめる」
「うん」
「こちらからチロリアンテープの話は出さない」
「わかった」
「先方が話題にするまで待つんだ」
……。
なるほど。
これは、なかなかいい作戦かもしれない。
*
「まあまあ! 皆さん、お揃いで!」
巣空邸の門を入るなり、おばあちゃんが現れた。
……。
早い。
まだ玄関にも着いていない。
「おはようございます!」
ミルが元気よく挨拶した。
「おはようございます。
今日は皆さんでお越しになると
思っておりましたのよ」
……。
え?
「どうしてですか?」
僕が尋ねると、おばあちゃんは、にっこり笑った。
「昨日、またいらっしゃるような
お話でしたでしょう?」
「……そうでしたっけ」
「ええ、たしか」
……。
僕はセイジを見た。
セイジも、少し不思議そうな顔をしていた。
昨日、電話で話したのは僕だけだ。
しかも、また行くなんて一言も伝えていない。
「ところで、今日は何のご用事で?」
おばあちゃんが尋ねた。
「ちょっと温室を見せていただこうと思って」
セイジが答えた。
「まあ、温室!」
おばあちゃんは嬉しそうに手を叩いた。
「それはちょうどよかったですわ!」
「……何がですか?」
「実は、温室で
ちょっと困ったことがありましてねえ」
……。
困ったこと?
「何ですか?」
「それが、昨日から
小さな蝶が何度も同じところへ来るんですの」
……。
蝶。
「追い払っても、また戻ってくるんです」
「へえ……」
「私はお掃除をしたいのに
あの子が邪魔をしましてねえ」
……。
「どこに来るんですか?」
僕が尋ねた。
「温室の奥の棚ですわ」
おばあちゃんは、にこにこと答えた。
「よろしければ、見ていただけません?」
……。
……。
セイジ。
こちらから質問する前に
調査を頼まれてしまったよ。
*
「では、ご案内しますわね」
おばあちゃんは、三人を温室へ連れていった。
温室には、いつものように
柔らかな光が差していた。
植物の葉に水滴が光っている。
小さな蝶も何匹か飛んでいた。
「こちらです」
案内されたのは、奥の棚だった。
小さな鉢が並んでいる。
その下には、空の植木鉢や
園芸道具が置かれていた。
「ここへ、何度も蝶が来るんですの」
「どの蝶ですか?」
セイジが尋ねた。
「青と黄色の、小さな子ですわ」
……。
僕とミルは、顔を見合わせた。
また、青と黄色。
「毎回、同じ個体なんですか?」
セイジが聞いた。
「まあ、よく似た子ですから
私には区別がつきませんけど」
「どのくらいの間隔で来ますか?」
「そうねえ……」
おばあちゃんは考えた。
「昨日は、朝とお昼と夕方。
それから夜中だったかしら」
「夜中?」
「ええ」
「夜中もお掃除なさるんですか?」
……。
セイジ。
いいところに気づいた。
「まあ、いけない!」
おばあちゃんは、口元を押さえた。
「夜中はお休みでしたわ」
「じゃあ、どうして
夜中に蝶が来たとわかったんですか?」
「……」
おばあちゃんは、少し考えた。
「夢でも見たんでしょうかねえ」
……。
……。
夢?
僕は、思わず聞き返した。
「蝶の夢ですか?」
「さあ、どうだったかしら」
……。
……。
なんだか、この人と話していると
質問をするたびに謎が増える。
*
「ところで、こちらの棚は、いつからこの位置に?」
セイジが尋ねた。
「ずっと前からだと思いますけど」
「最近、何か動かしましたか?」
「ええ。少しだけ」
「何を?」
「こちらの小さな鉢を」
おばあちゃんが、一つの鉢を持ち上げた。
緑の葉が三枚。
……。
あ。
この鉢。
前にも見たことがある。
「これ、シフが来ていた時にもありましたよね?」
僕が尋ねた。
「あら、そうでした?」
「はい」
おばあちゃんは、鉢を見つめた。
「そうねえ。少し日当たりのいいところへ
移したんですの」
「どうして?」
「その方が、蝶も見つけやすいかと思って」
……。
……。
「蝶が、ですか?」
「ええ」
おばあちゃんは、にっこり笑った。
「だって、あの子たち
しょっちゅう迷子になりますでしょう?」
……。
……。
迷子?
僕はミルを見た。
ミルも、首を傾げていた。
セイジは、ノートを開いた。
「迷子になるというのは、どういう意味ですか?」
「あら、言葉の綾ですわ」
「……」
「蝶も、お花を探して飛び回るでしょう?」
……。
そう言われれば、そうだけど。
なんだか、話が少しずつずれている。
*
「おはよう」
背後から声がした。
振り返ると、シフが立っていた。
「シフ!」
「イユ。ミルも。今日はセイジも一緒なのね」
「こんにちは!」
ミルが手を振った。
「おはようございます」
セイジが、少し緊張したように頭を下げた。
シフは、いつものように優しく微笑んだ。
「何をしているの?」
「蝶を調べてるんだ」
僕が答えた。
「蝶?」
「うん。おばあちゃんが、何度もここに来るって」
「あら、そう」
シフは、おばあちゃんを見た。
「毎日お忙しいのね」
「ええ。おかげさまで」
おばあちゃんも、にこにこしている。
……。
まただ。
この二人。
笑顔なのに、なんだか空気が違う。
「お仕事が増えたの?」
シフが尋ねた。
「ええ、少し」
「パパから頼まれたの?」
「あら、そんなことはございません」
……。
え?
「じゃあ、誰が?」
ミルが尋ねた。
「私が勝手に見つけたんですの」
おばあちゃんは、嬉しそうに答えた。
「家の中のお掃除だけでは
少々物足りませんでしょう?」
……。
いや。
物足りないなんて言って
仕事を増やす家政婦さん居る?
「それで、温室も?」
「ええ!」
「蝶の調査も?」
「そうですわ!」
……。
……。
セイジが、ゆっくり顔を上げた。
「つまり」
「はい?」
「蝶の調査は
巣空さんから依頼されたわけではないんですね」
「ええ、もちろん」
……。
もちろん?
「私が気になっただけですの」
おばあちゃんは、楽しそうだった。
「どうせなら、きちんと調べてみようと思いまして」
「……」
「でも、ひとりでは退屈ですから」
……。
……。
セイジ。
僕たち、今、何に付き合わされているんだろう。
*
「それなら、ひとつ提案してもいいかしら」
シフが言った。
「何でしょう?」
おばあちゃんが答えた。
「蝶が何度も同じ場所へ来るなら
そこへ目印を置いてみたら?」
「まあ!」
おばあちゃんの目が輝いた。
「それは素晴らしい!」
「小さな目印でいいのよ」
「ええ、ええ」
「誰が見てもわかるようにね」
……。
僕は、シフを見た。
なんだか、普通の植物観察の相談みたいだ。
「何を置くんですか?」
ミルが尋ねた。
「そうねえ……」
シフは、棚の上を見た。
「色のついた小さな札なんかどうかしら」
「なるほど!」
セイジが頷いた。
「位置を固定して写真を撮れば
蝶がどこに来たか比較できます」
「そうね」
……。
おばあちゃんは、嬉しそうに手を叩いた。
「それはいいですわ!」
そして、すぐに言った。
「では、私が用意してまいります!」
……。
……。
早い。
もう行ってしまった。
*
おばあちゃんがいなくなると
シフが棚に近づいた。
小さな鉢を見つめる。
それから、棚の端を指でそっとなぞった。
「……シフ?」
僕が声をかけると、シフは振り返った。
「なあに、イユ」
「何か見つけた?」
「いいえ」
「……」
「まだね」
……。
まだ。
ということは、何か探してるんだ。
セイジが口を開いた。
「シフさん」
「はい?」
「昨日、あの家政婦さんは
僕たちが確認したテープの変化を知っていました」
「そうなの?」
「はい」
「どんな変化?」
「蝶の模様が一列ずれていたんです」
シフは、少し考えた。
「なるほど」
「何か心当たりがありますか?」
……。
シフは、すぐには答えなかった。
「セイジ」
「はい」
「その変化は、いつ起きたの?」
「正確な時刻はわかりません」
「そう」
「ただ、前後の写真はあります」
「見せてもらえる?」
「もちろんです」
セイジは、スマホを取り出した。
二枚の写真を並べる。
シフは、じっと見つめた。
……。
そして。
「ねえ、セイジ」
「はい」
「右にずれたところだけじゃなくて
動かなかったところも記録しておいてね」
……。
……。
「動かなかったところ?」
僕が尋ねた。
「ええ」
「どうして?」
シフは、少しだけ笑った。
「変わらないことにも
意味があるかもしれないでしょう?」
……。
……。
まただ。
何かを知っているようで、何も教えてくれない。
*
「お待たせしましたー!」
おばあちゃんが戻ってきた。
両手に、いろんな色の札を持っている。
赤。
青。
黄色。
緑。
白。
「まあ、たくさん!」
ミルが言った。
「ええ。せっかくですから
選んでいただこうと思って」
「そんなに必要ですか?」
セイジが尋ねた。
「多い方が楽しいでしょう?」
……。
……。
観察に楽しさは必要なのかな。
「では、こちらへ」
おばあちゃんは札を棚に並べ始めた。
赤。
青。
黄色。
緑。
白。
……。
その順序を見ていたシフが、ふと口を開いた。
「どうして、その順番なの?」
「あら?」
おばあちゃんの手が止まった。
「何となくですわ」
「そう」
「ええ。何となく」
……。
シフは、微笑んだ。
「なら、少し変えてもいいかしら」
「もちろん」
シフは、青と黄色の札を入れ替えた。
……。
その瞬間。
おばあちゃんの笑顔が、ほんの少しだけ消えた。
……。
ほんの一瞬。
でも、僕は見た。
「……あら」
おばあちゃんが呟いた。
「どうしました?」
シフが尋ねた。
「いえ、何でもございません」
……。
……。
シフは、何も言わなかった。
*
「それでは、写真を撮ります」
セイジがスマホを構えた。
「はい!」
ミルが、棚から離れた。
僕も、少し後ろへ下がった。
おばあちゃんも、一歩下がった。
……。
シャッターの音。
写真が撮れた。
「これで、次に蝶が来た時と比較できます」
セイジが言った。
「素晴らしい!」
おばあちゃんは、大喜びだった。
「では、次はいついらっしゃるの?」
「え?」
「明日? 明後日?」
……。
「まだ決めてませんけど」
僕が答えると
おばあちゃんは残念そうな顔になった。
「まあ、そうですの」
……。
そんなに楽しみだったのか。
「でも、蝶が来たら連絡してください」
セイジが言った。
「ええ、もちろん!」
おばあちゃんは、また嬉しそうになった。
……。
……。
こうして僕たちは、巣空邸の蝶の観察に、いつの間にか参加することになった。
*
帰り道。
「……セイジ」
僕が呼ぶと、セイジはノートを見ていた。
「何だ?」
「今日、何かわかった?」
「いくつか」
「本当?」
「まず、あの家政婦さんは
こちらが何を調べているか知っていた可能性が高い」
「うん」
「それから、蝶が棚へ来るという話も
本人が調査を始めた理由も
まだ確かめられていない」
「うん」
「さらに、札の並びを変えた時だけ、反応が違った」
「そうそう!」
ミルが頷いた。
「私も見た!」
「だから」
セイジは、ノートを閉じた。
「次は、あの札の順序を変えてみようと思う」
「……」
「どう反応するか、比較したい」
……。
……。
セイジ。
いつの間にか、すっかり探偵になっている。
*
その日の夕方。
巣空邸では。
「シフお嬢様」
おばあちゃんが、温室の入口で声をかけた。
「なあに?」
「今日の札のことですけど」
「ええ」
「どうして、青と黄色を入れ替えたんですの?」
……。
シフは、微笑んだ。
「何となくよ」
……。
……。
おばあちゃんは、しばらくシフを見ていた。
そして、にっこり笑った。
「まあ」
「……」
「お上手ですこと」
……。
シフも笑った。
「ありがとう」
……。
二人は、しばらく黙っていた。
温室には、葉の揺れる音だけが聞こえていた。
*
やがて、おばあちゃんが口を開いた。
「では、明日は別の色を置いてみましょうか」
「いいわね」
「赤と緑なんて、どうでしょう」
「そうねえ」
シフは、少し考えた。
「それより、白を一枚だけ置いてみない?」
……。
おばあちゃんは、ぴたりと動きを止めた。
「……白?」
「ええ」
「一枚だけ?」
「そう」
……。
おばあちゃんは、しばらく考え込んだ。
「……それは、ちょっと」
「どうして?」
「……」
おばあちゃんは、困ったように笑った。
「ほほほ。白は、汚れが目立ちますでしょう?」
……。
……。
シフは、静かに頷いた。
「そうね」
……。
そして、棚の上の札を見た。
赤。
黄色。
青。
緑。
白。
……。
どれも、ただの小さな札だった。
……。
ただの札。
……。
本当に?
*
その夜。
僕のスマホに、セイジからメッセージが届いた。
『今日の写真を拡大した』
『うん』
『妙なものが写っていた』
『何?』
『札の位置が違う』
……。
え?
『どういうこと?』
『撮影した直後の写真と、さっき確認した写真で
青と黄色の位置が入れ替わっている』
……。
……。
『誰かが動かしたんじゃない?』
『違う』
『どうして?』
『写真の中で変わっているんだ』
……。
……。
僕は、スマホを握り直した。
……。
写真の中で?
そんなことが、あるの?
……。
しばらくして、もう一通届いた。
『イユル』
『何?』
『これは、もう蝶の観察じゃない』
……。
……。
僕は、返信するのを忘れた。
画面に、二枚の写真が並んでいた。
同じ棚。
同じ鉢。
同じ光。
……。
でも。
札の順序だけが、違っていた。




