『蝶の居場所』
「イユル。ちょっと行っていいか?」
セイジから電話があったのは、朝の九時だった。
「どうしたの?」
「チロリアンテープのことだ」
「何かわかった?」
「わかったというより、わからなくなった」
……。
セイジが、そんな言い方をするのは珍しい。
「どういうこと?」
「とにかく説明するから。ミルにも連絡してほしい」
「うん」
「それから、できれば
お父さんにも話を聞いてもらいたい」
「パパにも?」
「そうだ」
……。
これは、何かありそうだ。
*
セイジは来るなり、ノートパソコンを広げた。
画面いっぱいに、チロリアンテープの模様が
大きく映し出されている。
横には定規と拡大鏡も写っていた。
それから、細かい数字の書かれたノートも
開いて見せた。
「わあ!」
ミルが声を上げた。
「すごい調べたのね!」
「調べたというほどでもない」
セイジは、椅子を引いた。
「まず、これを見てくれ」
画面には、青と黄色の蝶の模様があった。
「前に撮影したものだ」
「うん」
「次に、これ」
別の写真が表示された。
……。
同じ蝶だ。
いや。
「……あれ?」
僕は画面に顔を近づけた。
「何か違う?」
「気づいたか」
「この蝶、ちょっと右に寄ってない?」
「正確には、模様の一部が右へ一列ずれている」
……。
一列。
そんなに細かい違いなのか。
「撮影角度のせいじゃないの?」
ミルが尋ねた。
「最初はそう思った」
セイジは、画面を拡大した。
「だから、テープの両端を基準にして
画像を重ね合わせた」
「うん」
「地の織り目は一致している。
ところが、蝶の右側だけが一致しない」
「へえ!」
「しかも、こっちを見てくれ」
セイジは、別の部分を指さした。
「黄色い糸が、ここでは一か所だけ飛んでいる」
「本当だ」
「前の写真にはない」
……。
僕は、写真を交互に見た。
どちらも、同じチロリアンテープだ。
同じ模様。
同じ大きさ。
なのに、ほんの少し違う。
「誰かが刺繍を直したとか?」
僕が尋ねると、セイジは首を振った。
「そんな形跡はない。それに、この部分は織り柄だ。後から糸を一列だけ動かすには
周囲の組織まで影響を受けるはずだ」
「……」
「だが、変化しているのは模様の一部分だけなんだ」
……。
僕は、シフの言葉を思い出した。
模様の並び方に意味があるとしたら。
「セイジ」
「何だ?」
「これって
模様が変わったなんてことじゃなくて……」
「うん?」
「何かを伝えてるのかな」
セイジは、少しだけ目を細めた。
「その可能性を考えている」
*
「ドットマトリクス、ねえ」
パパは、セイジの説明を聞きながら
画面を覗き込んだ。
「僕がそんなことを言ったのは
単なる見た目の連想だったんだけどね」
「でも、何か意味があるかもしれません」
セイジが言った。
「そうだね」
パパは、しばらく考えた。
「ちょっと待ってくれ」
机に置かれた方眼紙を一枚取った。
「例えば、ここに小さな四角が並んでいると
するだろう?」
鉛筆で、いくつかのマスを塗りつぶした。
「この並びを変えれば、別の形になる」
「うん」
「文字にもできるし、記号にもできる」
パパは、さらに別のマスを塗った。
「同じように、この蝶の模様の
ほんの一部が変わるとしたら……」
「うん?」
「同じ蝶に見えても
別の情報を表しているのかもしれない」
……。
別の情報。
「暗号みたいなもの?」
ミルが尋ねた。
「そういう使い方も考えられるね」
パパは笑った。
「もっとも、これが本当に情報なのかは
まだわからないけど」
「どうすれば確かめられますか?」
セイジが尋ねた。
「まず、同じ場所を何度も記録することかな」
「はい」
「それで、変わる場所に
規則性があるかどうかを見る」
セイジは、すぐノートに書き始めた。
「変化の時刻も記録した方がいいですね」
「そうだね」
「温度と湿度も」
「いいと思う」
「光の条件も」
「うん」
「それから、蝶が出てくる瞬間を撮影できれば……」
……。
セイジ。
楽しそうだなあ。
怖がっていたはずなのに。
*
その日の午後。
僕たちは、チロリアンテープを預かっている
ママの教室へ移動した。
「写真、撮らせてもらっていい?」
「もちろん」
ママは、清潔な作業台にテープを広げた。
「無理に伸ばし切らない方がいいわね。
糸が攣るかもしれないから、そっとね」
「うん」
セイジは、カメラを固定した。
同じ位置から
一定の間隔で撮影するつもりらしい。
ミルは、横からテープを眺めた。
「ねえ、ソレイユ」
「何?」
「この蝶、温室にいた蝶に似てない?」
「……」
僕も、蝶の模様を見た。
青と黄色。
細い翅。
小さな黒い点。
「似てる……かな」
「うん」
「でも、蝶って似た模様のが多いし」
「それはそうだけど」
……。
僕は、巣空さんの温室を思い出した。
何匹いるのかわからない、あの蝶たち。
そして。
「また一匹増えましたねえ」
家政婦のおばあちゃんのあの言葉を思い出した。
……。
おばあちゃん、何者なんだ?
*
「お茶、どうぞ」
ママがカップを並べてくれた。
みんなで休憩することになった。
セイジは、まだノートを見ている。
「そんなに根を詰めないで、少し休んだら?」
ママが言った。
「はい」
返事はしたけど、鉛筆は動いている。
……。
その時。
僕のスマホが鳴った。
「え?」
画面を見る。
知らない番号だった。
「もしもし?」
『あら、曾礼くん?』
……。
聞き覚えのある声。
「……どちらさまですか?」
『まあ。昨日お会いしたばかりなのに』
……。
あ。
巣空邸のお掃除おばあちゃんの声だ!
なんで僕の番号を?
「こんにちは!」
『こんにちは。今日はお忙しい?』
「ええと、ちょっと調べ物をしていて」
『まあ、そうなの』
……。
なんだろう。
『実はねえ、ひとつお尋ねしたいことがあって』
「何ですか?」
『昨日お持ちになっていた、あのきれいなテープ』
「はい」
『まだお手元にあるかしら』
……。
僕は、作業台を見た。
ある。
すぐそこに。
「ありますけど……」
『まあ、よかった』
「どうかしました?」
『いえね、ちょっと気になりまして』
「何がですか?」
『蝶の居場所』
……。
……。
「えっ?」
『あら?』
「蝶の……何ですか?」
『ほほほ。模様の場所ですよ』
「……」
『昨日、少し右に寄っていたような
気がしたものですから』
……。
……。
僕は、セイジを見た。
セイジも、僕を見た。
セイジの鉛筆がピタリと止まった。
*
「……おばあちゃん」
『はい?』
「どうして、それをご存じなんですか?」
『何を?』
「蝶が、右にずれていたことです」
『あら』
少し、沈黙があった。
『そうでした?』
「……」
『私、そんなこと申しました?』
「はい」
『まあ、いけない』
……。
いけない?
「何がですか?」
『いえいえ、何でもございません』
「でも……」
『あら、そろそろお掃除の時間ですわ』
「……」
『それでは、失礼いたしますねえ』
……。
電話が切れた。
*
僕は、スマホを見つめた。
ミルも、セイジも、黙っている。
パパが、飲んでいたお茶を置いて
口を開いた。
「とぼけた婆さんだなあ」
……。
とぼけた?
なんか違う気がしない?
「パパ!」
「何だい?」
「今の、聞いてた?」
「聞いてたよ」
「何で知ってたんだろう?」
「さあ」
「本人に聞いてみたら?」
「聞いたよ!」
「そうか」
……。
パパ。
もう少しなんとか言ってよ。
*
セイジは、しばらく考えていた。
それから、静かに言った。
「イユル」
「何?」
「明日、巣空邸へ行こう」
「え?」
「あの人に、もう一度会ってみたい」
「……」
「ただの家政婦さんとは思えない」
……。
僕も、そう思う。
ミルが、にっこり笑った。
「じゃあ、私も行く!」
「もちろん」
……。
明日。
また、あのおばあちゃんに会う。
何かわかるかな。
……。
いや。
何もわからないような気がする。
*
その頃。
巣空邸の温室では。
「……ずいぶん楽しそうね」
シフが、家政婦のおばあちゃんに声をかけていた。
「あら、シフさん」
おばあちゃんは、にこにこしている。
「何かいいことがあったの?おばあちゃん」
「ええ。ちょっと、お仕事が増えまして」
「お掃除?」
「ほほほ。そんなところですわ」
……。
シフは、微笑んだ。
「そう」
おばあちゃんも、微笑んだ。
……。
二人とも、笑っている。
でも。
どちらも、相手から目を離さなかった。
*
「ところで、シフさん」
「なあに?」
「蝶は、お好き?」
「ええ。とても」
「それはよかった」
おばあちゃんは、掃除道具の籠を持ち上げた。
「私も、大好きなんですの」
……。
その籠の縁に、小さな蝶がとまっていた。
青と黄色の翅。
黒い点が、ひとつ。
シフは、そっと目を細めた。
……。
おばあちゃんは、何も言わなかった。
ただ、にっこり笑っていた。




