温室の案内係
トーシローが、十時間寝た。
その翌日、十一時間寝た。
さらにその翌日、十二時間寝ようとして
母親に叱られた。
「学校があるでしょう!」
「だから早く寝てるんだよ!」
「宿題は?」
「……」
トーシローの睡眠研究は
早くも重大な障害に直面していた。
宿題である。
*
「イユル、今日の午後、空いてる?」
ミルが僕の机の前に立った。
「うん。何かあるの?」
「巣空邸の温室、今日から一般公開なんだって」
「ああ、あの温室!」
僕は思わず声を上げた。
巣空邸の庭に不時着したDOCONANI1号機。
あの透明な船体が、今では温室になっている。
宇宙船だったものに花を植えるという発想は
なかなかいいと思う。
「蝶がたくさんいるらしいよ」
ミルが言った。
「……蝶?」
「うん」
「……仕事してるかな」
「何の?」
「いや、こっちの話」
ミルは笑った。
この頃、僕が虫に話しかけることを
彼女はあまり不思議がらなくなっていた。
それはそれで、どうなんだろう。
*
巣空邸の温室は、思っていた以上に立派だった。
透明な丸い建物の中に
背の高い植物が何本も伸びている。
壁には蔓が絡まり
天井近くには小さな白い花が咲いていた。
外から見ると
巨大な水饅頭に植物を詰め込んだように見える。
「きれい!」
ミルが歓声を上げた。
「すごいなあ」
僕も見上げた。
あの頃は、こんなふうになるなんて
思ってもみなかった。
入り口で、年配の女性が
案内用のパンフレットを配っていた。
「どうぞ。中では走らないでくださいね」
「はい」
「それから、蝶には触らないでください」
「はい」
「蝶の方から触ってくるかもしれませんが」
「はい?」
「蝶に質問するのも構いません」
「……え?」
僕は顔を上げた。
女性は、にっこり笑った。
「蝶が答えられないことは
係の者に聞いてくださいね。お花のことも」
……ああ、そういうことか。
びっくりした。
*
温室の中は、ほんのり暖かかった。
湿った土と、葉っぱの匂いがする。
黄色い蝶が二匹、花の間を飛んでいた。
ミルはスマートフォンを取り出して
写真を撮り始めた。
僕は、近くの花に止まっている蜂を見つけた。
「お仕事中ですか?」
蜂は、花の中に頭を突っ込んだままだった。
「忙しそうだね」
返事はない。
「イユル」
ミルが僕を呼んだ。
「その蜂、普通に蜜を集めてるんじゃない?」
「うん。そうかもしれない」
「そうじゃなかったら?」
「……わかんない」
ミルは、くすくす笑った。
僕だって、何もかも疑っているわけじゃない。
ただ、以前より少し、虫たちの事情が
気になるようになっただけだ。
*
温室の奥には、小さな休憩スペースがあった。
椅子とテーブルが置かれ
植物の図鑑や写真集が並んでいる。
ミルが一冊のノートを見つけた。
「イユル、これ見て」
表紙には、
『温室観察日誌』
と書かれていた。
中には、来場者が見つけた花や虫のことが
書き込まれている。
『黄色い蝶を三匹見ました』
『蜂が花から花へ移動していました』
『葉っぱの裏に小さな卵がありました』
普通の観察日誌だ。
ところが、途中のページに妙な記録があった。
『午後二時十七分。蝶が一匹、いなくなった』
その下に、
『午後二時十九分。戻ってきた』
とある。
……。
「これ、何だろう」
「蝶が飛んでいって、また戻ってきたんじゃない?」
「うん。そうだよね」
さらにページをめくる。
『午後三時四分。黄色い蝶、同じ場所に戻る』
『午後三時六分。再びいなくなる』
『午後三時八分。戻る』
……ずいぶん細かく観察している人がいるなあ。
僕は感心した。
でも、よく見ると、記録の筆跡が少しずつ違う。
何人かが交代で書いているらしい。
……蝶の観察って、そんなに人気があるのかな。
*
「イユル、動かないで」
ミルが小さな声で言った。
「え?」
「肩」
僕は首を動かしかけて、止めた。
右肩に、黄色い蝶が止まっていた。
羽の端に、小さな黒い模様がある。
……。
「お仕事中ですか?」
蝶は、羽を一度だけ開いた。
「……そうですか」
「何がそうなの?」
ミルが笑いをこらえている。
「いや、何となく」
その時、温室の奥で、何かが小さく鳴った。
チリン。
風鈴みたいな音だった。
蝶が羽を閉じた。
チリン。
もう一度。
蝶は僕の肩から飛び立ち、奥の植物の間へ消えた。
「何の音だろう」
ミルが言った。
「さあ」
僕たちは音のした方へ歩いた。
そこには、小さなガラスの飾りが吊るされていた。
透明な板を何枚か重ねた、風鈴のようなものだ。
風もないのに、ゆっくり揺れている。
「きれいだね」
ミルが言った。
「うん」
僕は飾りを見上げた。
透明な板の一枚に、何かが刻まれていた。
細い線。
曲がった線。
小さな丸。
……文字?
僕は、もう少し近づいた。
でも、光の加減で見えなくなった。
「イユル?」
「うん?」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
僕は、もう一度飾りを見た。
今度は、ただの透明な板に見えた。
*
帰り際、入り口の案内係の女性が
僕たちに声をかけた。
「楽しめましたか?」
「はい!」
ミルが答えた。
「黄色い蝶が、イユルの肩に止まったんです」
「ああ! その子は
スペシャルなキャストなんですよ」
「……キャスト?」
僕は思わず聞き返した。
「ええ。この温室の蝶たちは
みんなパフォーマンスが上手なんですけどね。
あの黄色い子は
特にサービス精神が旺盛なんですよ」
……サービス精神?
「じゃあ、肩に止まったのも
パフォーマンスなんですか?」
「さあ、どうでしょう」
女性は楽しそうに笑った。
「蝶に聞いてみないとわかりませんね」
……。
……聞いてもいいのかな。
僕は、もう一度温室の奥を振り返った。
サービス精神と言えば
あの精霊たちのサービス精神の旺盛さには
本当に驚かされた。
彼らのパフォーマンスには脱帽だ。
ここの蝶たちも、もしかして?
「それはそうと」
女性は、独り言のように小声でつぶやいた。
「今日は一匹、数が合わないのよね」
「……数?」
「あ、いえね。
毎日、種類と数を確認しているんですけどね」
……。
「逃げたんですか?」
「それならいいんですけど」
女性は、笑った。
「増えているんですよ。一匹」
……。
……増えた?
「卵から生まれたんじゃないですか?」
「蝶は、卵からいきなり蝶にはなりませんよ」
……あ。
そうだった。
女性は、また笑った。
「まあ、多分、数え間違いでしょうね」
僕たちは温室を出た。
帰り道、ミルが言った。
「イユル、さっきの蝶、かわいかったね」
「うん」
「また来ようね」
「うん」
僕は振り返った。
透明な温室が、夕日に光っていた。
……あの蝶。
あのコもやっぱり、精霊なのか?
だったら?
また何かが始まる?
いや、考えすぎかもしれない。
でも
……どうして、一匹増えたんだろう。




