第4話 よろしいですね
呼び出された部屋には、三冊の帳面が開かれていた。
一冊には屋敷の予定。もう一冊には客人の名と注意事項。残る一冊には、その日までに用意する品が書き出されている。
家政を預かる女性は、エステルが入ると最後の帳面を手前へ引いた。
「近く、晩餐会を開きます」
「かしこまりました」
エステルは筆記具を用意した。
「お招きするのは、以前からクロフォード家とお付き合いのある御家です。レイナ様との婚約について、正式にお話しする席となります」
筆先が紙へ触れる前に止まった。
「婚約、でございますか」
「まだ決定ではありません」
女性は落ち着いた声で続けた。
「だからこそ、双方が同席する場を設けるのです。先方の御家にも、御本人にも、これまで問題になるような評判はありません。レイナ様を高く評価してくださっていると伺っています」
「はい」
「当日は、あなたにも控えてもらいます。長いお席になりますから、衣装や御体調に無理がないか、近くで見ていてください」
エステルは筆を動かした。
衣装。髪飾り。宝飾品。靴。支度を始める時刻。晩餐会前に休息を取れる時間。
一つずつ書き留めれば、いつもの仕事と大きくは変わらない。
「本日、レイナ様にもお話があります。あなたは後ろへ控え、衣装と支度について尋ねられた場合だけ答えなさい」
「承知いたしました」
晩餐会の日付は、まだ空欄だった。
◇
「近日中に、先方をお招きすることになりました」
エステルはレイナの髪を梳きながら告げた。
これから出るのは晩餐会ではない。家の者から説明を受ける席である。用意した衣装も華美なものではなく、家の正式な話へ加わるのにふさわしい落ち着いた色を選んだ。
「本日は、そのお席についてのお話がございます」
鏡の中で、レイナがエステルを見る。
「婚約のお話ですね」
「はい」
エステルは櫛を置き、髪をまとめた。
レイナはそれ以上尋ねなかった。
嫌なのか。
楽しみなのか。
相手について何を知っているのか。
いくつも言葉が浮かんだが、どれも口にするには近すぎた。
少し前まで、好きな本さえ尋ねられなかった。
「仕上がりました」
「ありがとう、エステル」
レイナは鏡の前から立ち上がった。
◇
応接室には、クロフォード家の当主と家令、記録を取る者がいた。
レイナの席は当主の向かいに用意されている。
エステルはその後ろ、声をかけられればすぐ前へ出られる位置へ控えた。
「座りなさい、レイナ」
「はい」
レイナが椅子へ座る。
当主は手元の書類を開いた。
「先方との婚約について、話を進めることになった」
落ち着いた声だった。
「先方とは以前から良好な関係にある。家格にも、評判にも問題はない。御本人も必要な教育を受け、今後家を担う者として不足はないと聞いている」
レイナは黙って聞いている。
「先方も、お前の教養とこれまでの振る舞いを高く評価している。婚約がまとまれば、両家の関係はより安定するだろう」
「承知しております」
記録役の筆が紙を走る。
当主は次の書類へ手を移した。
「婚約後は、先方の催す席にも出ることになる。客人を迎え、必要に応じて両家の間を取り持つ役目も増える」
家令が、予定される行事について補足する。
レイナなら問題なく務められる。
これまでの教育を生かせる。
先方にも安心して迎えてもらえる。
どの言葉も、レイナの能力を認めるものだった。
エステルも否定できなかった。
レイナは、求められた場で過不足なく振る舞える。突然の来客にも、難しい話題にも対応できる。相手を損なわず、自分の家の立場も守れる。
「まずは、先方を晩餐会へ招く」
家令が二つの日付を示す。
当主と家令は屋敷側の予定を確かめ、先方から届いた書面と照らし合わせた。
「こちらの日がよいでしょう」
「異存はない」
一つの日付へ印がつけられる。
記録役が新しい紙へ書き写した。
レイナは、そのやり取りを見ていた。
「当日は夕刻から席を設ける。食事の前に、先方と話す時間も取るつもりだ」
当主が書類を重ね、初めてレイナへ正面から目を向けた。
「このように進めます。よろしいですね」
部屋が静かになった。
記録役の筆も止まっている。
レイナはすぐには答えなかった。
ほんの短い間だった。
何を考えたのか、後ろにいるエステルからは表情もよく見えない。
「お話は理解いたしました」
レイナが答えた。
「では、晩餐会は予定どおりに」
当主は家令を見る。
止まっていた筆が再び動いた。
誰も、今の返答を聞き直さなかった。
「レイナの支度には、どれほど必要だ」
突然尋ねられ、エステルは顔を上げた。
「衣装と髪を整える時間に加え、その前に御休息を取っていただければと存じます。夕刻より少し早く、お支度を始めさせてくださいませ」
「分かった。前後の予定を空けるように」
「かしこまりました」
エステルは頭を下げた。
靴は長く座っていても負担の少ないものを選ぶ。髪は重い飾りを避ける。食事の前に水分を取り、少し休めるようにする。
レイナが晩餐会へ出るために必要なことなら、いくらでも思いついた。
使用する部屋と入場の時刻が確認される。
席順や料理については、家令が別の紙へまとめた。
話し合いは滞りなく終わった。
◇
応接室を出ると、廊下には二人の足音だけが響いた。
エステルは半歩後ろを歩いた。
聞くなら、今なのかもしれない。
けれど、望んでいないと答えられたら。
その言葉を聞いた自分は、何をするのだろう。
「お嬢様」
レイナが少しだけ振り返る。
「お部屋へ戻りましたら、当日までのご予定を整えます」
「お願いします」
レイナは前へ向き直った。
◇
予定表には、すでに先々の日程まで書き込まれていた。
晩餐会の日には、午後の講義と夕刻の稽古が入っている。
エステルは講義へ細い線を引き、空いている別の日へ移した。稽古も翌週へ回す。
二つの予定が消えた欄に、晩餐会と書く。
その下には、支度を始める時刻。
その前には、休息のための時間。
レイナは机のそばに立ち、書き換えられる予定を見ていた。
エステルの筆が止まった。
「当日は、夕刻よりお支度を始めます」
レイナは予定表へ目を落としたまま答えた。
「分かりました」
エステルは筆を動かした。
最後の文字を書き終える。
乾く前のインクが、元からあった予定の上で黒く光っていた。




