第3話 お好きな方を
午後の講師が来られないと分かったのは、昼食を終えた直後だった。
「今朝から熱が下がらないそうです」
知らせを運んできた使用人が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「先ほど、ご家族の方が使いを寄こされました。本日の講義は、後日改めてお願いしたいとのことでございます」
「それは心配ですね」
レイナは手にしていた茶器を受け皿へ戻した。
「どうぞお大事にと、お伝えください」
「かしこまりました」
使用人が退出すると、エステルは予定表を開いた。
午後に入っていた二時間の講義がなくなった。
夕刻には舞踏の稽古がある。それまでの時間が、そっくり空いている。
以前なら、別の日の課題を前倒ししただろう。
次の講義で使う資料は用意できる。来週の来客について確認しておくこともある。教師が不在でも、するべきことは幾つもあった。
予定表へ書き加えるだけなら、すぐに終わる。
エステルは紙の上へ置いた筆を動かさなかった。
馬車の窓の向こうで、二人の女性がパンを選んでいた。
一人が選んだものへ、もう一人が別のものを示す。二人は少し言い合い、笑い、どちらも包んでもらった。
レイナは、その様子を見ていた。
「エステル?」
呼ばれて、顔を上げる。
「失礼いたしました」
レイナはいつものように、次の予定を待っていた。
エステルは予定表を閉じた。
「次のお時間まで、どのようにお過ごしになりますか」
口にした後、自分の声がいつもと違って聞こえた。
レイナがわずかに目を見開く。
「わたくしが決めても?」
「もちろんでございます」
すぐに答えた。
これでよいのだと思った。
何をなさりたいのかを尋ね、その答えに合わせて支度をする。それも仕える者の仕事であるはずだ。
窓の外で、庭木の枝が大きく揺れた。
「ただ、本日は少し風が強いようです。お庭へお出になるのでしたら、厚手の羽織をご用意いたします」
何も言わないままでは不親切だと思い、エステルは続けた。
「お部屋でお休みになることもできますが、長くお休みになれば、夕刻のお支度が慌ただしくなるかもしれません」
レイナは黙って聞いている。
「図書室でしたら、次の講義のご準備もできます。先日お話に出た地方史の本も、すでに戻っているはずです」
すべて伝えてから、エステルは待った。
庭へ出ることもできる。
部屋で休むこともできる。
図書室へ行くこともできる。
どれを選んでも、エステルは必要なものを用意するつもりだった。
レイナは窓へ一度目を向けた。
風に揺れる枝を見たのかもしれない。
それから、閉じられた予定表を見る。
「では、図書室へ参りましょう」
「かしこまりました」
エステルは予定表を持ち直した。
レイナが自分で決めた。
そう思った。
◇
図書室には、午後の光が斜めに差し込んでいた。
高い棚には革張りの本が並び、低い棚には、比較的新しい本が置かれている。
エステルは窓に近い椅子を引いた。
「こちらでしたら、日が暮れるまで灯りは要らないでしょう」
「ありがとう」
レイナは椅子の背へ手を添えたが、まだ座らなかった。
近くの棚へ視線を向ける。
棚には詩集があった。
その隣には、異国を旅する姉妹を描いた物語。その下には薄い戯曲と、装丁の剥げかけた古い寓話集が並んでいる。
少し離れた棚に、地方史の本があった。
「先ほど申し上げた本は、こちらでございます」
エステルは迷わず地方史の本を抜き取った。
次の来客は、その地方に領地を持つ家の者だと聞いている。土地の産物や古い出来事を知っておけば、会話にも役立つだろう。
「次にお会いになる方のお話にも、きっと――」
レイナへ差し出しかけたところで、手が止まった。
何を読むのか、尋ねていない。
棚を見ていたレイナより先に、自分が本を選んでいる。
歴史書を棚へ戻し、どれになさいますかと尋ねればよい。
エステルは本を持ったまま、レイナを見た。
レイナも、差し出されかけた本を見ている。
ここで急に引けば、何か不備があったと思わせるかもしれない。レイナを立たせたまま、意味もなく待たせることになる。
「――きっと、お役に立つかと存じます」
エステルは両手で本を差し出した。
「そう。ありがとう」
レイナは受け取り、窓辺の椅子へ座った。
エステルは向かいの壁際へ立った。
本の頁がめくられる。
図書室には、紙の擦れる音だけが続いた。
◇
レイナは一時間ほど読み、栞の紐を頁の間へ挟んだ。
「いかがでございましたか」
エステルが尋ねる。
「必要なところまでは読めました」
レイナは本を閉じた。
地方の歴史について、何を知ったのか。次の来客とどの話をすればよいのか。それなら聞くことができる。
けれど、エステルが知りたかったのは別のことだった。
「お嬢様がお好きな本は……」
言葉の続きを待つように、レイナが顔を上げた。
エステルは壁の時計を見た。
舞踏の稽古までは、まだ時間がある。
着替えも、髪の直しも、急ぐほどではない。
今なら尋ねられる。
好きな本は何か。
詩を読むのか、物語を読むのか。
あるいは、本など読みたくなかったのか。
答えを聞いた後、どうすればよいのだろう。
もしレイナが、歴史書ではなく物語を読みたかったと言ったなら。
庭へ出たかったと答えたなら。
エステルが先に示したものとは違う答えを、今さら口にさせることになる。
「……いえ」
エステルは予定表を開いた。
「そろそろ、お支度をいたしましょう」
「分かりました」
レイナは何を尋ねようとしたのか聞かなかった。
閉じた本を、エステルへ差し出す。
「お戻ししておきます」
「お願いします」
レイナが図書室を出ていく。
扉が閉じてから、エステルは一人で棚へ向かった。
地方史の本を、抜き取った場所へ戻す。
隣の棚には、先ほどと同じ本が並んでいた。
異国を旅する姉妹の物語。
薄い詩集。
古い寓話集。
どれにも、レイナの指が触れることはなかった。
エステルは一冊ずつ背表紙を見た。
どれがお好きなのかは、まだ知らない。




