第2話 窓の向こう
玄関前には、約束の時刻より少し早く馬車が着いていた。
エステルは御者から今日の道順を聞き、馬車の扉と座席を確かめた。雨の心配はない。ひざ掛けも不要だろう。
屋敷へ戻ると、外出着に着替えたレイナが広間へ下りてくるところだった。
手袋も帽子も、すでに決められたものを身につけている。
「正面玄関からお出になり、仕立屋には昼前に到着いたします。仮合わせの後は、そのままお屋敷へ戻り、遅めの昼食をお取りいただきます」
「分かりました」
エステルは羽織の襟を整えた。
手伝いに来ていた若い使用人が、窓の外へ目を向ける。
「今日はお天気もよろしいですし、お帰りは庭園通りを――」
「午後には語学の講師がお見えになります」
エステルが言うと、若い使用人は口を閉じた。
「いつもの道が最も早いでしょう。御者にも、そう伝えてあります」
「失礼いたしました」
レイナは二人のやり取りを聞きながら、手袋の指先を整えていた。
「参りましょうか、お嬢様」
「ええ」
扉が開かれる。
レイナは、先に用意されていた馬車へ乗った。
◇
車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、座席が小さく揺れた。
レイナは窓側の席に座り、エステルは向かいの席で手元の紙を開いた。
「本日は裾丈と袖の長さを中心に確認いたします。生地と色は、先日お見せした見本の中から決まったそうです」
「淡い青の生地でしたね」
「はい。装飾は、仕立屋から用途に合うものを提示していただきます。滞在は長くとも一時間ほどかと」
「承知しました」
レイナはそれ以上尋ねなかった。
寸法を合わせるために、本人が店へ行く。
布も色も決まっている。どこへ着ていくかも、いつ必要になるかも、家の者が把握している。
あとは身体に合うよう仕立てればよい。
馬車が大通りへ出た。
荷を積んだ車とすれ違い、鐘の音が遠くから聞こえる。歩道を急ぐ者の姿が、窓の外を後ろへ流れていった。
エステルは紙を閉じた。
予定の確認は終わった。あとは到着まで、衣装に皺が寄らないよう気をつければよい。
やがて馬車の速度が落ちた。
市場に近い通りには、人と荷車が集まっていた。御者が前方へ声をかけ、手綱を引く。馬車は二台の荷車に挟まれ、ゆっくりと進んだ。
レイナが窓の外へ顔を向けている。
以前なら、エステルは混雑ばかりを気にしていただろう。
到着が遅れないか。窓から埃が入らないか。通行人が馬車へ近づきすぎていないか。
今日は、レイナが何を見ているのかを追った。
通りの角に、小さなパン屋があった。
庇の下には籠が並べられ、丸いもの、細長いもの、焼き色の濃いものが、布の上に重ねられている。
一人の女性が、二つの籠を見比べていた。
片方から一つを取り、店主へ何かを尋ねる。隣にいた連れの者が、別の籠を指した。
二人は顔を見合わせた。
笑いながら何かを言い、結局、それぞれが選んだパンを一つずつ包んでもらっている。
女性が硬貨を渡す。
受け取った紙包みを、連れの者が抱えた。
レイナの視線が、その包みを追っていた。
パンを見ているのだと思った。
けれど、籠の前で迷う女性も、隣から口を挟んだ連れも、代金を払う指先も、レイナは順に見ていた。
先日の問いが浮かぶ。
お嬢様は、どのパンがお好きなのでしょう。
馬車が止まった。
御者が前の荷車へ呼びかけている。しばらくは動けそうにない。
エステルは時計を確かめた。
時間には余裕がある。
少し、お止めいたしましょうか。
言葉が胸元まで上がった。
だが、すでに馬車は止まっている。ここは人が多く、令嬢を降ろすための場所も整っていない。護衛へも御者へも、予定外の行動を伝えていない。
そもそもレイナが、あの店へ寄りたいと思っているとは限らなかった。
ただ窓の外を見ているだけかもしれない。
エステルは時計を戻した。
「この程度の混み具合でしたら、次のご予定には十分間に合います」
レイナが窓から視線を戻す。
「そう」
前の荷車が動き出した。
馬車も続く。
パン屋は窓の端へ流れ、すぐに見えなくなった。
◇
仕立屋は、店の奥にある応接室へ二人を案内した。
壁には色とりどりの布が並べられている。窓辺の台には糸巻きや針山が置かれ、二人の職人が仮縫いの衣装を運んできた。
淡い青の生地だった。
「こちらへお願いいたします、レイナ様」
レイナが台の上へ立つ。
職人が布を身体へ沿わせ、印をつけていった。
「首元は苦しくございませんか」
「問題ありません」
「腕をお上げいただけますか」
レイナが両腕を上げる。
「袖が引かれる感じはございませんか」
「右だけ、少し」
「ありがとうございます。直しておきます」
尋ねられたことへ、レイナは一つずつ答えた。
裾が長すぎないか。腰がきつくないか。肌へ当たる場所がないか。
すべてを測り終えると、仕立屋が二つの装飾を持ってきた。
「最後に、襟元でございますが」
一つは細い銀糸。もう一つは、小さな透明の石を並べたものだった。
仕立屋はレイナへ向きかけ、エステルを見る。
「お使いになる場には、どちらがよろしいでしょう」
「銀糸を。昼の席でも華美になりすぎません」
「かしこまりました」
レイナは鏡に映る二つの装飾を見た後、腕を下ろした。
仮合わせは予定どおり、一時間もかからず終わった。
◇
帰りの馬車も、同じ道を通った。
市場の混雑は少し収まり、行きに見たパン屋の籠も数が減っていた。
先ほどの二人の姿はない。
レイナは窓の外を見ていた。
風向きが変わり、乾いた風が車内へ入る。レイナの耳元から、細い髪が一筋ほどけた。
「失礼いたします。風が出てまいりました」
エステルは窓を少し閉めた。
外の音が遠くなる。
完全には閉めていない。街並みは見えるし、風もわずかに入ってくる。
エステルはレイナの髪を直した。
「ありがとう」
「いいえ」
馬車は速度を上げた。
今度こそ、パン屋はすぐに通り過ぎた。
◇
屋敷へ戻ると、午後の予定まであまり時間がなかった。
エステルはレイナの帽子と羽織を預け、次に使う教材が用意されているか確認した。
「昼食は小食堂へ運ばせております。その後、語学のお部屋へお願いいたします」
「分かりました」
二人は近道をするため、使用人用の廊下に近い通路を進んだ。
扉の一つが、わずかに開いている。
中から若い声が聞こえた。
「だから、今日は煮込みがいいって言ったの」
「昨日も似たようなものだったじゃない」
「昨日は豆。今日は肉が少し残ってるって」
「料理長が使わせてくれるの?」
「残り物で作れるならって。あなたが食べたい方も、鍋を分ければ作れるそうよ」
小さな歓声が上がった。
「じゃあ、どっちが先になくなるか賭けましょう」
「自分の方を多く盛るつもりでしょう」
笑い声が廊下へこぼれた。
レイナの歩みが、わずかに遅くなった。
エステルも足を止めかけた。
レイナは開いた扉の方を見ていた。
「お嬢様」
呼んだ後に、次の言葉が一瞬遅れた。
何をお聞きになっていたのですか。
何か、召し上がりたいものがございますか。
どちらも口にはならなかった。
「次のお時間が近づいております」
レイナが前へ視線を戻す。
「ええ。参りましょう」
二人は歩き出した。
廊下の奥で、次の部屋の扉が待っている。
レイナがその前で止まると、エステルは一歩先へ出た。
「お待たせいたしました。どうぞ、お嬢様」
扉を開ける。
レイナが部屋へ入った。
使用人たちの笑い声が、背後からもう一度聞こえた。
エステルは振り返らなかった。
レイナに続いて部屋へ入り、扉を静かに閉めた。




