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このスキル、やばスギル。【レイナ・クロフォードの来歴譚】~合流まで~  作者: 明日乃風


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第1話 滞りなく



 レイナ・クロフォードが目を覚ますより先に、その日の支度はほとんど終わっていた。


 エステルは寝室へ入ると、まず窓辺へ向かった。


 厚いカーテンを半分だけ開く。差し込んだ朝の光が寝台へ直接触れないことを確かめ、窓をわずかに開けた。空気は冷たすぎず、風も強くない。


 洗面台には温めた水。椅子の背には、今日の衣装。鏡台には髪飾りと、午前から夕刻までの予定を書き留めた紙。


 衣装は昨夜、二着の候補からエステルが選んだ。


 午前の教師を迎えるのに軽すぎず、昼の来客の前でも見劣りせず、午後の礼法にも差し支えない一着だった。


 寝台から、かすかな衣擦れの音がした。


「おはようございます、お嬢様」


 レイナが目を開ける。


「おはよう、エステル」


「よく晴れております。午前は歴史と礼法の講義、昼前には叔父君がお越しになる予定です。午後は語学、その後に一時間ほど舞踏のお稽古がございます」


「分かりました」


 レイナは身を起こし、差し出された上着を羽織った。


 洗面の水の温度を尋ねることも、今日の服を確かめることもない。


 エステルは、今日もよい朝を迎えられたことに安堵した。


     ◇


 髪を整えていると、若い使用人が二つの髪飾りを載せた盆を運んできた。


 一つは乳白色の小花をあしらったもの。もう一つは、淡い青の石を細く連ねたものだった。


 若い使用人が鏡越しにレイナを見た。


「お嬢様、どちらを――」


「本日は、こちらがよろしいでしょう」


 エステルは青い石の髪飾りを取った。


 衣装の色を邪魔せず、昼の客の前へ出るにもふさわしい。迷う理由はなかった。


 レイナは鏡の中の髪飾りへ目を向けた。


「ええ。お願いします」


「かしこまりました」


 留め金の位置を確かめ、髪を一筋も乱さず固定する。


 若い使用人が感心したように手元を見ていた。


 鏡の中で、レイナが静かに立ち上がった。


 よく似合っている。


     ◇


 朝食も、すでに整えられていた。


 香りの薄い茶と、柔らかな白パン。刻んだ果物と、薄味の温かな料理。


 午前には発声の指導が入る。食事が重すぎれば声を出しにくくなり、香辛料が強ければ喉へ障る。その点は、料理人とも確認してあった。


 レイナは背筋を伸ばし、決められた量を静かに口へ運んだ。


 食事が半ばまで進んだ頃、先ほどの若い使用人が小さな皿を持ってきた。


「失礼いたします。今朝の焼き上がりに一つだけ余りが出たそうです」


 皿の上には、小さな丸いパンが載っていた。


 焼き色はよい。だが片側が少し潰れ、形が不揃いだった。


「味には問題ないそうなのですが……」


 若い使用人は、その皿をレイナの前へ置くべきか迷い、エステルを見た。


 エステルは朝食の皿と、残っている予定を確かめた。


「お下げして。お嬢様には、こちらで足りています」


「かしこまりました」


 皿が下げられる。


 そのとき、レイナの目が丸いパンを追った。


 ほんの一瞬だった。


 形の崩れたものを自分の食卓へ載せるのが気になったのだろうか。


 エステルは、早く気づけてよかったと思った。クロフォード家の令嬢へ出す食事なら、味だけでなく、見た目も整っていなければならない。


「お茶をお替えいたしますか」


「ええ、少しだけ」


 新しい茶を注ぐ頃には、丸いパンはもう食堂から消えていた。


     ◇


 午前の講義で、教師は祝いの席における応答を取り上げた。


「相手の申し出を、その場で受けられない場合は?」


「まず、ご厚意への感謝を申し上げます。そのうえで、私一人ではお答えできない事柄だとお伝えし、家の者と相談する時間をいただきます」


「相手の顔を潰さず、返答を留保するわけですな」


「はい」


 レイナの答えに迷いはなかった。


 声の高さも、言葉の間も申し分ない。教師は満足そうにうなずき、エステルも壁際で胸をなで下ろした。


 講義が終わる前に、廊下から呼び出しがあった。


 昼前に来るはずだった叔父が、予定より早く到着したのだという。


 エステルはすぐに午後までの予定を頭の中で組み替えた。


 発声の残りは別の日へ回せる。昼食の時刻を少し早めれば、語学の開始には間に合う。茶の用意には、別室を使えばよい。


 レイナへ変更点だけを伝える。


「叔父君がお見えです。こちらの講義を終えた後、そのまま東の客間へお願いいたします」


「承知しました」


「昼食は少し早めにご用意いたします。午後の語学に変更はございません」


「ありがとう、エステル」


 レイナは突然の来客にも表情を崩さなかった。


 客間へ入る前に一度だけ呼吸を整え、扉が開けば、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべる。


「ご無沙汰しております、叔父様」


「急に押しかけてすまないね、レイナ」


「いいえ。お目にかかれて嬉しく存じます」


 会話が途切れそうになれば、レイナが季節の話題を差し出す。


 茶が冷めかければ、エステルが交換する。


 叔父が帰りを意識して時計へ目を向ければ、レイナも話を結ぶ言葉を選ぶ。


 二人の間に合図は要らなかった。


 いつ茶を替え、いつ話題を移し、いつ席を立つべきか。エステルが動くより少し前には、レイナも同じ流れを理解している。


「相変わらず立派だ。クロフォード家の誉れだよ」


 叔父は帰り際、満足そうに言った。


「もったいないお言葉です」


 レイナが美しく一礼する。


 その背後で、エステルも頭を下げた。


 扉が閉じる。


 予定より早く来た叔父は、予定より早く帰っていった。


     ◇


「次のお時間まで、四十分ほどございます」


 廊下へ出たところで、エステルは予定表を確かめた。


 組み替えた予定と実際の応対時間に、わずかなずれが生じていた。


 四十分。


 長くはない。だが、すぐに次の部屋へ向かう必要もなかった。


 レイナが足を止める。


 廊下の先には中庭へ続く扉がある。反対側へ進めば図書室だ。自室へ戻って休むこともできる。


 エステルは手元の紙を見た。


 午後の語学では、先週渡された長い文章を読む予定になっている。先に目を通しておけば、講師を待たせることもないだろう。


「次のお時間まで、こちらをご覧になりますか」


 エステルは予定表の下に挟んでいた教材を差し出した。


 レイナがエステルを見る。


 すぐには受け取らなかった。


 何か不足があっただろうか。


 教材を間違えた覚えはない。講師から指定された箇所にも、紙片を挟んである。


 やがてレイナは手を伸ばした。


「ええ、そうしましょう」


「では、南の小部屋をご用意いたします。あちらなら静かですから」


「お願いします」


 エステルは先に歩き、部屋を整える使用人を呼び止めた。


 空いていた四十分にも、正しい使い道が決まった。


 予定外の来客があったにもかかわらず、今日の学びを減らさずに済む。


 それでよい。


 南の小部屋へ入る直前、エステルは一度だけ振り返った。


 レイナは教材を胸元に持ち、いつもと変わらない足取りでついてきていた。


     ◇


 最後の予定が終わる頃には、窓の外は暗くなっていた。


 エステルはレイナの髪から、朝に留めた青い飾りを外した。


 一日身につけていても、髪はほとんど崩れていない。


「本日もお疲れさまでございました」


「あなたも。急な来客までありましたのに、今日も滞りなく済みましたね」


「恐れ入ります」


 その言葉だけで、一日の疲れが軽くなる気がした。


 遅刻はなかった。


 衣装にも、応対にも、礼法にも間違いはなかった。


 予定外に空いた時間も無駄にしなかった。


 お嬢様を困らせることもなかった。


「明朝も、いつものお時間に参ります」


「ええ。おやすみなさい、エステル」


「おやすみなさいませ、お嬢様」


 寝室を出て、音を立てないように扉を閉じた。


 廊下では、朝から手伝っていた若い使用人が待っていた。


「お疲れさまでした」


「あなたも。朝からよく動いてくれました」


「ありがとうございます」


 若い使用人は嬉しそうに笑った。


「あの、今朝のパンなのですが」


「パン?」


「形が崩れていたものです。下げた後、料理長が私たちへ回してくださいました。見た目は少し悪かったですけれど、とてもおいしかったんです」


「そう。それはよかったわね」


「はい。それで……」


 若い使用人は閉じた寝室の扉を見た。


「お嬢様は、どのパンがお好きなのでしょう」


 エステルは口を開いた。


 毎朝出しているのは、柔らかな白パンだ。


 午前の予定が軽い日には、果実を練り込んだものを添えることもある。体調を崩した翌日は薄く切り、祝いの朝には香りのよいものを用意する。


 何を出すべきかなら、知っている。


 けれど、レイナが何を食べたいと言ったか。


 どのパンを見て、もう一つ欲しいと笑ったか。


 記憶をたどっても、答えは出てこなかった。


「朝には、柔らかい白パンをお出ししています」


 ようやく、エステルは答えた。


「そうなのですね。では、明日も間違えないように覚えておきます」


 若い使用人は丁寧に頭を下げ、廊下の向こうへ去っていった。


 エステルは一人、扉の前に残った。


 レイナが何時に起きるのかを知っている。


 何を学び、誰と会い、どれだけ食べるべきかも知っている。


 明日着る服も、髪へ留める飾りも、もう決めてある。


 それなのに。


 レイナがどのパンを好きなのか、エステルは知らなかった。

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