第5話 いつものように
淡い青のドレスは、薄い布を何枚も重ねて運ばれてきた。
仕立屋の者が布を一枚ずつ外すたび、刺繍と細かな装飾が現れる。
華やかではあるが、色は柔らかい。晩餐会の灯りの下でも目立ちすぎず、クロフォード家の令嬢として不足もない。
エステルは受取帳へ署名する前に、裾から襟元まで目を通した。
縫い目にほつれはない。袖の長さも、仮合わせの際に直すと聞いたとおりになっている。背の留め具も滑らかに動いた。
「ご注文いただいたとおりに仕上げてございます」
仕立屋の者が言った。
「当日までに問題が見つかりましたら、すぐお知らせください」
「承知いたしました」
エステルは帳面へ名前を書いた。
仕立屋の者たちが退出すると、衣装を整える部屋には淡い青のドレスだけが残った。
晩餐会の日は、もう近い。
◇
「右腕をお願いいたします」
レイナが腕を上げる。
エステルは袖を通し、刺繍へ指が引っかからないよう布を少しずつ引き上げた。
反対の腕も通す。
背後へ回り、留め具を下から順に閉じていく。
鏡の中で、淡い青がレイナの身体に沿った。
仮縫いだったときよりも生地には張りがあり、襟元から裾へ続く装飾も完成している。髪も宝飾品もまだ整えていないのに、正式な席へ出る令嬢の姿になっていた。
「肩に引かれる感じはございませんか」
「ありません」
「腕をお上げくださいませ」
レイナがゆっくりと両腕を上げる。
袖に不自然な皺は寄らない。
「そのまま、数歩お進みください」
裾が床の上を滑る。
レイナは鏡の前を離れ、部屋の端まで歩いた。向きを変え、戻ってくる。
靴の先が裾を踏むこともなかった。
「お掛けになっていただけますか」
用意した椅子へ、レイナが腰を下ろす。
エステルは腰回りの布を見た。
「座った際、苦しくはございませんか」
「問題ありません」
「長いお席になります。少しでも気になるところがございましたら、今のうちに仕立屋へ戻せます」
レイナは袖口へ目を落とし、指先で布を一度なぞった。
「このままで大丈夫です」
「かしこまりました」
エステルは裾へ膝をつき、折れた箇所を伸ばした。
立ち上がると、鏡台へ用意していた髪飾りと宝飾品を並べる。
「当日は、こちらからお選びいたします。髪は重くなりすぎないよう整え、御食事の前には少しお休みいただけるようにいたします」
「ええ」
「お支度には余裕を持たせております。仕立てに問題もございませんので、当日までこちらで保管いたします」
鏡越しに、レイナと目が合った。
「エステル」
「はい」
「当日の支度も、あなたにお願いできますか」
エステルの指が、髪飾りの箱へ触れたまま止まった。
「もちろんでございます」
レイナは鏡の中で、小さくうなずいた。
「いつものように、お願いいたします」
「かしこまりました」
いつものように。
髪を整え、ドレスを着せ、晩餐会の席へ送り出す。
エステルはレイナの背後へ回った。
留め具へ手をかける。
二人きりだった。
扉は閉じている。次の予定まで時間もある。
この婚約を、お望みなのですか。
声にするなら、今だった。
指先に力を入れ、一つ目の留め具を外す。
もし、望んでいないと言われたら。
それでも当日になれば、今と同じように、この留め具を下から順に閉じるのだろうか。
いつものようにと頼まれた手で。
エステルは次の留め具へ指をかけた。
「こちらの締めつけは、苦しくございませんか」
鏡の中で、レイナがエステルを見る。
「問題ありません」
「承知いたしました」
最後まで留め具を外した。
◇
普段の服へ戻ったレイナは、鏡台の前に並べられた品へ目を向けた。
髪飾り。宝飾品。手袋。
エステルは当日の支度を始める時刻を告げた。
「夕刻より少し早く、お部屋へ参ります」
「分かりました」
レイナはそれだけ答え、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
エステルは淡い青のドレスを形が崩れないよう掛け直し、上から布をかぶせた。
靴を揃える。
手袋を重ね、髪飾りと宝飾品をそれぞれの箱へ戻した。
補修用の糸と小さな布、予備の留め針を針入れへ収める。
蓋を閉じた。
机の上にも、棚の中にも、足りないものはなかった。
エステルは部屋の灯りを消した。
◇
晩餐会の日、エステルは約束した時刻にレイナの部屋を訪れた。
カーテンはまだ開いていた。
傾いた日の光が床へ伸び、布をかぶせた淡い青のドレスを照らしている。
エステルは窓を閉めた。
風で髪が乱れないようにし、部屋の灯りをつける。
「お支度を始めてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
ドレスへかけていた布を外す。
レイナが腕を上げた。
エステルは袖を通し、背後へ回って留め具を下から順に閉じた。
先日の試着と変わらない手順だった。
肩の布を整える。
腰の皺を伸ばす。
床へ広がった裾を一周し、靴の先へ引っかからないことを確かめる。
「苦しくはございませんか」
「大丈夫です」
鏡台の前へ座ってもらい、淡い金色の髪を梳いた。
背中の中ほどまである髪を取り分け、崩れないよう結い上げる。髪飾りを留め、宝飾品を合わせた。
最後に手袋を渡す。
レイナは片方ずつ指を通した。
鏡の中には、晩餐会へ出るクロフォード家の令嬢がいた。
整えられた髪。
刺繍と装飾の施された淡い青のドレス。
背筋の伸びた姿勢。
「いかがでしょうか」
エステルが尋ねる。
レイナは鏡の中の自分を見た。
「ええ。ありがとうございます」
気に入ったのかとは聞かなかった。
婚約を望んでいるのかとも、聞かなかった。
レイナが立ち上がる。
「参りましょうか」
「はい」
エステルは針入れと補修用の布を小さな袋へ収め、レイナの後ろに続いた。
◇
晩餐会の席は、予定どおりに整えられていた。
磨かれた食器。折り目の揃った卓布。等間隔に並ぶ燭台。
クロフォード家と相手方の者たちが席へ着き、レイナの向かいには婚約相手候補が座った。
エステルは壁際に控えた。
料理が運ばれ、決められた順に下げられていく。
両家の者たちは、穏やかな声で言葉を交わした。
これまでの付き合い。
今後、両家で助け合えること。
婚約がまとまった場合に、レイナと相手が出ることになる席。
婚約相手候補も、レイナへ礼儀正しく話しかけた。
「急に多くの話を聞かされて、お疲れではありませんか」
「お気遣いありがとうございます。問題ございません」
「今後のことも、一度にすべて決める必要はないと考えております」
「ええ」
声は穏やかだった。
レイナも、求められた礼を欠かさない。
誰かが失言することも、声を荒らげることもなかった。
家同士の話は、滞りなく進んだ。
エステルは一度、水差しを替えるよう給仕へ合図した。
そのあとで、レイナの顔が卓上ではない方へ向いていることに気づいた。
窓の外を見ていた。
夜の街には、屋敷の灯りより小さな明かりが点々と並んでいる。
店じまいを始める店。
包みを抱えて歩く人。
家路を急ぐ荷車。
どれも、この部屋からは遠い。
レイナは黙って見ていた。
エステルも視線の先を追った。
何を見ているのかは分かった。
なぜ見ているのかは、分からなかった。
「レイナ」
当主に呼ばれ、レイナは窓から顔を戻した。
「失礼いたしました」
「今後の日取りについてだが」
新しい話が始まる。
レイナは姿勢を正し、静かに聞いた。
何かを言おうとはしなかった。
◇
最後の皿が下げられた。
晩餐会の主が卓上を見渡す。
「続きは、隣室で話しましょう」
主が席を立った。
招待客たちも、それに続いた。
椅子が静かに引かれる。
レイナも立ち上がった。
淡い青の裾に重ねられた飾り布が、一箇所だけ留めから浮いていた。
エステルは小さな袋から針入れを出した。
予備の留め針を一本取り、レイナのそばへ膝をつく。
裾を整えようとした指から、留め針が落ちた。
絨毯へ触れた小さな音は、椅子を引く音に紛れた。
エステルは留め針を拾った。
顔を上げた。
レイナ・クロフォードが立っていた場所には、誰もいなかった。




