漁師と悪魔と黄金の球体
「……けっ、またこいつかよ」
俺――ザックは、網を引き揚げた瞬間、思わず毒づいた。
「ザックさん、また『ヌメり這い』がびっしりっすね。あんた、海の女神様に嫌われてんじゃねぇですか?」
「うるせぇ、余計なお世話だ。……ったく、気色悪いツラしやがって」
食えねえ魚ばかり獲るなんて、漁師の風上にも置けねえ――なんてことは言わねえ。
こういう日もある。それが海ってもんだ。
「捨てちまいましょうぜ。網も汚れちまう」
「ああ……いや、ちょっと待て」
その時、ふと――あのエルフの姉ちゃんの顔が頭に浮かんだ。
「そうだ。そろそろ時期だしな……あそこに持ってってやるか」
ーーー
向かったのは、下町の路地裏にひっそりと佇む『霧の魔女堂』だ。
古びた一軒家。猫の絵が描かれた錆びた看板。何十年経っても、色褪せるどころか煤け具合まで変わらねぇ、不思議な店だ。
「邪魔するぜ」
カランカラン、と乾いた鈴の音が響く。
「はーい!」
中から飛び出してきたのは、亜麻色の髪を跳ねさせた、五歳くらいの小娘だった。
「だれ?」
「誰だ?」
俺の問いと、足元から響いた低い声が重なった。
見れば、カウンターの上にでかい黒猫が座り、金色の瞳で俺を品定めしている。
「あら、ザックさんじゃない。どうしたの、珍しいわね」
奥から顔を出したのは、店主のアリシアだ。
「なんだ、いたのか。ついに小さくなったのかと思ったぞ」
「そんなわけないでしょ」
会った時から一日たりとも歳を取らねぇエルフに皮肉を飛ばすが、本人は涼しい顔で受け流す。
「今日は『ヌメり這い』が大量に獲れたんでな。厄介払いがてら持ってきた」
そう言って籠をどん、と置く。
すると、さっきのガキ――ミーアって言ったか――が、すぐに中を覗き込んだ。
「うわー! うにょうにょしてるー! おもしろーい!」
物怖じしねえガキだな。……よし、ちょっと驚かせてやるか。
俺は『ヌメり這い』を鷲掴みにすると、蠢く触手を目の前に突き出した。
「ほら、どうだ――」
「うわー! 足がたくさん! すごーい!」
……怖がらねえのかよ。
「場所によっては“オクト・デーモン”なんて呼ばれるからね」
「ふん。そんな悪魔がいるか」
……ん?
今、どこからか声がした気がしたが。
「たくさん獲れたのね。私たちだけじゃ、こんなには食べきれないわね」
アリシアが籠を覗き込み、事も無げに言った。
「……は? 食べる、のか? こいつを?」
「食べるに決まってるでしょ。これ、美味しいのよ?」
「他にどうするのよ」とでも言いたげな顔だ。魔女だけに、怪しい薬の材料にでもするのかと思ったが……まさかの食料扱いだ。
「ザックさんも、食べていく? ちょうどお昼どきだし」
「なぬっ!?」
あまりに素っ頓狂な声が出たのか、ミーアがケラケラと笑いやがる。
「おし、いいだろう! 食ってやるよ! この『ヌメり這い』をな!」
売り言葉に買い言葉――思わず啖呵を切っちまった。
……この決断を、あとで少しだけ後悔することになる。
ーーー
アリシアは慣れた手つきで内臓を取り出すと、それを無造作に鍋へと放り込んだ。
……まさか、あれさえも喰うつもりなのか。
「ミーア、タライを持ってきて」
「はーい!」
ミーアが元気よく返事をして、すぐにタライを運んでくる。そこに水と、ひとつまみの塩を入れると、アリシアは静かに呟いた。
「――《渦巻く流れ、清廉なる飛沫。穢れを解き、滑らかに巡れ》(アクア・スピン・リンス)》」
水面がくるりと回り始める。まるで生き物のように、柔らかく、しかし確かな力で。
「わー、お洗濯してるの?」
「ええ、そうよ。ミーアもやってみる?」
「はーい!」
見習い少女は慣れた様子で渦の魔力を引き継ぎ、水を回し始めた。
「おい、一体何をしてるんだ?」
「こうやってヌメリを取るのよ。雑味が消えて、身が締まるの」
洗い終えた足を、今度は棒のようなものでリズミカルに叩いていく。
「今度は潰すのか?」
「いいえ。軽く叩いてあげるの。そうすると、食べやすくなるのよ」
アリシアは手際よく触手を切り分けると、一切れをひょいと猫の前に放った。黒猫はフンと鼻を鳴らし、躊躇なくそれを口にする。
「ミーアも欲しい! アリシアお姉ちゃん、ちょうだい!」
「はいはい、わかったわよ」
切り分けられた生の身を、五歳の少女はためらいなく口に運ぶ。
「んー……美味しいかも!? ぷにぷにしてる!」
嬉々として喰いやがる。……そして当然のように、俺の前にも一切れ差し出された。
「むむむ……」
五歳のガキが平気な顔をしてるのに、海の男が逃げるわけにもいかねぇ。
意を決して口に放り込む。
……味は薄い。だが、不味くはない。
噛むほどに、じわりと旨味が滲み出てくる。
(なるほど……これは……)
思っていたより、ずっと悪くない。
「せっかくだし、『たこ焼き』でも作りましょうか」
「たこ焼き?」
聞き慣れねえ言葉に眉をひそめる。
「東方では、この生き物を“タコ”って呼ぶのよ」
そう言って取り出したのは、見たこともない鉄板だった。半円の窪みがいくつも並んでいる。
そこに薄い生地を流し込み、細かく刻んだ“タコ”を入れる。
串でくるりと返せば、あっという間に黄金色の球体が転がり始めた。
香ばしい匂いが、鼻をくすぐる。
「熱いから気をつけてね」
ミーアはさっそく一つ掴み、
「はふっ、はふっ……おいしい!」
と、口を押さえながらも嬉しそうに頬張っている。
……学ばねえな。
俺の前にも皿が置かれる。茶褐色の濃厚なソースと、黄色がかったソースがたっぷりとかかっていた。
もう“ヌメり這い”の面影はねえ。見た目だけなら、十分にご馳走だ。
「……いくか」
覚悟を決めて、口に放り込む。
「あッ、つ、熱つッ!!」
「だから、熱いって言ったでしょ」
アリシアがくすりと笑う。
口の中で転がして冷ましながら噛み締めると――
外はカリッと、中はとろり。
その中から、弾力のあるタコの旨味が弾け出す。
「……これは……」
悔しいが、うまい。
「まだたくさんあるから、遠慮しないで食べてね」
その言葉に甘えて、気づけば腹いっぱいになるまで食っていた。
「美味しいでしょ?」
……認めざるを得ねぇ。
今の時期、あいつは海にいくらでもいる。あの不気味な見た目が、ここまで化けるとはな。
(あの鉄板……鍛冶屋に頼めば作ってもらえるか?)
そんなことを考えている自分に、思わず苦笑する。
――後に「ゲテモノ食いのザック」と呼ばれるようになるのだが、それはまた別の話だ。
ーーー
「やれやれ……美味ければ悪魔も食う、か」
吾輩は目の前に並べられた六つの丸い塊を見つめながら呟いた。
「悪魔じゃなくてタコだけどね」
アリシアが楽しげに返す。
「ふん。見た目で食わぬなど、ただの食わず嫌いじゃ」
「クロちゃん食べないの?」
「十分に冷ましてからじゃ」
ミーアが不満そうに頬を膨らませる。
「熱いのが美味しいのにー」
「猫に熱々のものを食わせるな」
ふん――だが。
この“たこ焼き”という代物、冷めてもなお旨味を逃がさん。なかなか見どころがある。
「文句言うけど、ちゃんと食べるのね」
「当たり前じゃ。食い物に罪はないからの」
アリシアが面白そうにこちらを見る。
「悪魔なのにね」
「悪魔でも、猫でも、人でも――変わらん理じゃ」
吾輩は、ほどよく冷めた一つを口に運ぶ。
外は軽く締まり、中は柔らかい。噛めば旨味が広がる。
海から来た未知の味。
霧の魔女堂の食卓は、今日もまた――静かな幸福に満ちていた。




