嘘じゃない「好き」を、今度こそ
その日の夜。
私は、清水君と一緒に選んだ本を読み終えた。
主人公は何度も失敗し、迷いながらも、最後には自分で答えを選んだ。
すべての問題が思いどおりに解決したわけではない。
それでも、自分で考え、自分の気持ちを伝えたことで、少しずつ周りとの関係が変わっていった。
「……よかったなあ」
私は本を閉じて、表紙をそっと撫でた。
そして、最後の場面を思い返しているうちに、あることを思い出した。
私も、最初は自分の気持ちを伝えることができなかった。
振られるのが怖くて、嘘をついた。
自分を守るために、清水君の名前を口にした。
あのときは、まさか本当に清水君と付き合うことになるなんて思っていなかった。
でも、今は違う。
清水君と過ごす時間が好きだ。
一緒に本を選ぶのも、感想を話すのも、何気ないことで笑い合うのも、全部楽しい。
それなのに、私はふと考えてしまうことがある。
清水君は、あのとき、どう思っていたんだろう。
私が自分の名前を出したことを、どう受け止めていたのだろう。
もちろん、今の私たちは恋人だ。
これまで一緒に過ごしてきた時間も、二人で交わした言葉も、本物だと思っている。
それでも、始まりが嘘だったことは変わらない。
私は、あのとき自分のことばかりを考えていた。
清水君の気持ちを、ちゃんと考えていただろうか。
「……今度、ちゃんと聞いてみよう」
私はスマートフォンを手に取った。
ただし、いきなりメッセージで聞くのは、少し勇気がいる。
顔を見て、直接話したい。
私は清水君との次の予定を確認しながら、そっと息を吐いた。
◇
数日後。
私は清水君と、駅前のカフェで待ち合わせをしていた。
注文した飲み物が運ばれてきて、二人で最近読んだ本の話をしている。
清水君が私の選んだ本の感想を話してくれたので、私は嬉しくなって、つい身を乗り出してしまった。
「えっ、清水君、そこが一番印象に残ったの?」
「はい。主人公が、最後に自分で答えを選んだところです」
「私はね、その少し前の場面が好きだったの。主人公が、失敗したことを友達に正直に話すところ!」
「なるほど。あの場面もよかったですね」
違うところを好きになっても、こうして話し合える。
それが、私たちの楽しみになっていた。
私は笑顔で頷いたあと、少しだけ表情を改めた。
「……ねえ、清水君」
「はい?」
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……いいかな?」
「もちろんです」
清水君は、私の顔を見てくれた。
私はカップに視線を落とした。
「……私たちが付き合うことになったときのこと、覚えてる?」
「もちろんです」
清水君の答えに、私は小さく頷いた。
「あのとき、私が清水君の名前を出したのは、振られるのが怖かったからだったよね」
「はい」
「自分が傷つきたくなくて、とっさに嘘をついて……そのために、清水君まで巻き込んじゃった」
あのときのことを思い返すと、今でも胸が痛む。
私は清水君の名前を、自分の都合で使ってしまった。
清水君がどう思うかよりも、自分がどうすれば傷つかずに済むかを考えていた。
「……あのとき、清水君はどう思ったの?」
ようやく、聞くことができた。
清水君は少しだけ考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「正直に言うと、驚きました」
「……うん」
「それに、優里恵さんが本当に僕のことを好きなのかどうかも、分かりませんでした」
私は胸の前で手を握った。
やっぱり、そうだよね。
私だって、反対の立場だったら戸惑っていたと思う。
「……ごめんね。私、自分のことしか考えてなかった」
そう謝ると、清水君は首を横に振った。
「でも、僕も、優里恵さんのことをもっと知りたいと思っていたんです」
「えっ?」
「もちろん、あのときは驚きました。どうして僕の名前を出したのだろうとも思いました。でも、優里恵さんと話してみたいと思ったことも、本当なんです」
私は思わず顔を上げた。
「……そうだったの?」
「はい」
清水君は、少し照れたように微笑んだ。
「最初から、すべて分かっていたわけではありません。優里恵さんが何を考えているのか、どうしてそんなことをしたのか、僕にも分からないことがありました」
私は、黙って話を聞いていた。
「でも、一緒に過ごすうちに、優里恵さんがどんな人なのか、少しずつ分かってきたんです」
「……清水君」
「好きな本の話をしているとき、とても楽しそうなところ。周りの人のことをよく考えているところ。それなのに、自分のことになると、なかなか素直になれないところも」
「うぅ……」
私は思わず顔を覆った。
「そ、そんなに見られてたの……?」
「はい」
「恥ずかしいよぉ……」
清水君が小さく笑った。
でも、その笑顔はからかうようなものではなかった。
「そういうところも含めて、僕は優里恵さんのことを知りたいと思うようになりました」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
清水君は、私が最初から完璧だったから好きになってくれたわけではない。
私のことを少しずつ知って、そのうえで、今も一緒にいてくれている。
「……ありがとう」
私は、ようやくそれだけを言った。
◇
しばらくして、私はカップを置いた。
「……私ね、もう一つ、伝えたいことがあるの」
「はい」
清水君が、まっすぐに私を見てくれた。
「あのときは、自分が傷つくのが怖くて、清水君のことをちゃんと考えられなかった。でも、今は違うよ」
私は、少しだけ姿勢を正した。
「清水君と一緒にいるのが楽しい。もっといろんなことを知りたいし、私が知らないことも教えてほしい。私のことも、もっと知ってほしい」
言葉にするたびに、胸が熱くなっていく。
「……清水君のことが、本当に好きだよ」
今度は、恥ずかしくても目を逸らさなかった。
清水君は、少し驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。僕も、優里恵さんのことが好きです」
その言葉を聞いて、私はようやく息を吐いた。
やっぱり、嬉しい。
何度聞いても、好きな人から好きだと言ってもらえるのは嬉しかった。
「……えへへ」
「どうしました?」
「ううん。嬉しいなって思って」
私は照れながら笑った。
以前の私は、好きだと言えば、そのあとに何か悪いことが起きるのではないかと怖がっていた。
気持ちを伝えたら、相手に幻滅されるかもしれない。
自分の弱いところを知られたら、嫌われるかもしれない。
でも、今は少し違う。
清水君は、私が迷っているときも、失敗したときも、話を聞いてくれた。
私も、清水君が何を考えているのか、分からないときには尋ねてみたい。
全部を知っている必要はない。
分からないことがあったら、これから一緒に知っていけばいいのだから。
◇
カフェを出ると、駅へ向かって歩き始めた。
私は隣を歩く清水君を見上げた。
「ねえ、清水君」
「はい?」
「今度のデート、私が行き先を考えてもいい?」
清水君は少し驚いたようだった。
「もちろんです。どこか行きたいところがあるんですか?」
「うん。まだ決まってないんだけど、清水君が普段あまり行かないところとか、私が前から気になっていたところとか、いろいろ考えてみたいなって」
「いいですね。楽しみにしています」
「えへへ。頑張って考えるね!」
私は笑顔で答えた。
これまでは、清水君がどう思うかを気にして、なかなか自分から提案できないこともあった。
でも、これからは、自分がしたいことも伝えていきたい。
清水君の希望を聞くことも、自分の希望を伝えることも、どちらも大切にしたい。
嘘から始まった私たちの関係。
あのときの私は、ただ自分が傷つかないようにすることしか考えられなかった。
けれど今は、清水君と一緒に過ごしたいと、自分の意思で思っている。
その気持ちは、もう嘘ではない。
「……清水君」
「はい?」
「これからも、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
清水君は、いつもの優しい笑顔で答えてくれた。
私はその顔を見て、嬉しくなった。
これから先も、迷うことはあるだろう。
うまく気持ちを伝えられない日もあるかもしれない。
それでも、今度は嘘でごまかさずに、自分の気持ちを言葉にしていこう。
清水君と一緒に、少しずつ前へ進んでいこう。
そう思いながら、私は次のデートで何をしようか、あれこれ考え始めた。




