同じ本なのに、感じ方は違う
清水君と本を交換してから、数日が経った。
私は、彼から借りた本をもう一度開いていた。
最初に読んだときは、続きが気になって夢中でページをめくっていたのだけれど、読み終わってから改めて考えてみると、気になる場面がいくつもあった。
主人公は、どうしてあそこであんなことを言ったのだろう。
あのとき、相手の気持ちに気づいていたのだろうか。
そして、最後の選択は本当に正しかったのだろうか。
考え始めると、次から次へと疑問が浮かんでくる。
「……これ、清水君と話したいな」
思わず口にしてから、私は自分の言葉に頬を緩めた。
以前の私なら、好きな本の話を誰かとすることなんて、あまり考えなかったと思う。
自分の好きなものを話して、相手に理解してもらえなかったらどうしよう。
面白くないと思われたら嫌だな。
そんなことを考えて、結局、自分の中だけで楽しんでいた。
でも、清水君は違う。
私が好きなものを話すと、ちゃんと聞いてくれる。たとえ自分が知らないことでも、興味を持って質問してくれる。
それが、私はとても嬉しかった。
もちろん、清水君が勧めてくれた本も面白かった。
ただ、私が一番楽しみにしているのは、これから彼と感想を話す時間なのかもしれない。
そう考えると、約束の日が待ち遠しくなった。
◇
「こんにちは、清水君」
「こんにちは、優里恵さん」
約束の日。
待ち合わせ場所のカフェに着くと、清水君はすでに席についていた。
テーブルの上には飲み物が二つ。私が来るのを待っていてくれたらしい。
「ごめんなさい。待たせちゃった?」
「いえ、僕も今来たところです」
「そっか。よかった」
私は清水君の向かいに座り、持ってきた本をテーブルの上に置いた。
清水君も、鞄から一冊の本を取り出す。
お互いに貸し借りした本だ。
「読み終わりました?」
「うん! すっごく面白かった!」
思わず身を乗り出して答えると、清水君は嬉しそうに微笑んだ。
「よかったです。優里恵さんが楽しめるか、少し気になっていたので」
「どうして? 清水君の好きな本なんでしょう?」
「好きな本だからこそ、ですね。自分が好きなものを、相手も好きになってくれるとは限りませんから」
その言葉に、私は小さく頷いた。
確かにそうだ。
私だって、自分の好きな本を誰かに勧めるときは、少し緊張する。
面白いと思ってもらえたら嬉しいけれど、そうでなかったら、なんとなく自分まで否定されたような気持ちになってしまうかもしれない。
だからこそ、清水君が私の感想を楽しみにしてくれていることが嬉しかった。
「じゃあ、さっそく感想を話そうよ!」
「はい。ぜひ」
私は本を開き、気になっていた場面について話し始めた。
主人公が、ずっと大切にしていた人に本音を伝える場面。
私は、あの場面がとても好きだった。
それまでずっと自分の気持ちを隠していた主人公が、最後には勇気を出して言葉にする。
その姿が、なんだか自分と重なったのだ。
「私、あの場面で主人公が言ったこと、すごく勇気がいることだったと思うの」
「そうですね。あの状況で本音を伝えるのは、簡単ではなかったと思います」
「でしょう? だって、もし相手に受け入れてもらえなかったら、今までの関係まで壊れちゃうかもしれないんだよ?」
言いながら、私は少しだけ胸が痛くなった。
自分の気持ちを伝えるのは怖い。
相手に嫌われるのも怖い。
だからこそ、私はあんな嘘をついてしまったのだ。
振られるのが怖くて、本当の気持ちを隠してしまった。
でも、今は違う。
目の前にいる清水君と、私は恋人同士になっている。
あのときの私が知ったら、きっと驚くだろう。
「……優里恵さん?」
「あっ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてた」
「大丈夫ですよ。ゆっくり考えてください」
清水君は急かさず、私の言葉を待ってくれた。
その優しさに、胸の奥が温かくなる。
「ありがとう。それでね、私が一番好きだったのは、主人公が最後に自分の気持ちをちゃんと伝えられたところなの」
「なるほど」
「うん。やっぱり、ちゃんと言葉にしないと伝わらないことってあると思うから」
清水君は、少し考えるように視線を落とした。
「僕も、そう思います。ただ……」
「ただ?」
「僕は、あの場面で主人公がもう少し早く気持ちを伝えていたら、違う結果になっていたんじゃないかと思ったんです」
「えっ?」
思わず、私は目を丸くした。
清水君は、私とは違うところに注目していたらしい。
「もちろん、最後に伝えられたことはよかったと思います。でも、それまで主人公が黙っていたせいで、相手もずっと不安な思いをしていたでしょう?」
「そ、それは……そうかもしれないけど」
「もし、もっと早く気持ちを伝えていたら、相手も自分の気持ちを伝えやすくなったかもしれません。少なくとも、あそこまで遠回りをしなくて済んだんじゃないかな、と」
私は、手元の本を見つめた。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
主人公が気持ちを隠していたせいで、相手も本当の気持ちを知ることができなかった。
その結果、二人は何度もすれ違ってしまったのだ。
「……そっか。清水君は、そういうふうに読んだんだね」
「はい。優里恵さんは違いましたか?」
「うん。私は、最後に勇気を出せたことが嬉しかったから。でも、清水君の言うこともわかるよ」
私は本を閉じて、少し考えた。
同じ物語を読んでいるのに、気になるところが違う。
私は主人公が勇気を出したことに注目していたけれど、清水君は、そこに至るまでの二人の関係を考えていた。
どちらが正しいというわけではない。
でも、清水君の話を聞いたことで、私は今まで気づかなかったことに気づけた。
「なんだか、不思議だね」
「何がですか?」
「同じ本を読んでいるのに、こんなに感想が違うんだなって」
「そうですね。人によって、気になるところは違いますから」
清水君は、穏やかに笑った。
「だから、感想を聞くのは面白いんだと思います。自分だけでは気づけなかったことを知ることができますから」
「……うん!」
私は大きく頷いた。
そうだ。
私は今まで、本を読むときは一人で楽しむものだと思っていた。
もちろん、一人で読む時間も好きだ。
物語の世界に入り込んで、登場人物の気持ちを想像して、自分なりの答えを見つける。
それは、今までと変わらない。
でも、誰かと感想を話すことで、楽しみ方が増えることもあるのだ。
しかも、その相手が清水君なら。
「……ねえ、清水君」
「はい?」
「私、清水君と本の話をするの、すごく楽しい」
気づいたら、そんな言葉が口から出ていた。
清水君は一瞬だけ目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「僕もです。優里恵さんが、どんなところを面白いと思ったのか知ることができて嬉しいです」
「そ、そう?」
「はい。僕が気づかなかったことも、たくさんありますから」
そう言われると、なんだか照れくさい。
でも、嬉しい。
自分の好きなものを話して、それを大切に受け止めてもらえる。
こんなに幸せなことがあるんだ。
私は、思わず頬を緩めてしまった。
◇
その後も、私たちはしばらく本の話を続けた。
登場人物の行動について意見を交わしたり、好きな場面を紹介し合ったり。
ときには意見が食い違って、二人で笑ってしまうこともあった。
「私は、あの人にも事情があったと思うんだけどなあ」
「事情があったことと、その行動が正しかったかどうかは、別の話だと思います」
「ううっ、清水君、厳しい……」
「そうですか?」
「そうだよ!」
私が少し頬を膨らませると、清水君は困ったように笑った。
「すみません。でも、優里恵さんの考えを否定したいわけではないんです」
「わかってるよ。ちょっと言ってみただけ」
そう答えると、清水君はほっとしたように表情を緩めた。
その様子を見て、私はまた嬉しくなる。
以前の私なら、意見が食い違ったとき、相手に嫌われないように無理に合わせていたかもしれない。
でも、清水君とは違う意見を言っても大丈夫なのだ。
彼は私の話を聞いてくれるし、私も彼の話を聞きたいと思う。
そのことが、少しずつ自信につながっていく。
やがて、テーブルの上の飲み物も少なくなり、私たちはそろそろ帰ろうかという話になった。
私は借りていた本を鞄にしまいながら、ふと思いついた。
「ねえ、清水君」
「はい」
「今度は、別の本も一緒に選びに行かない?」
言ってから、少しだけ緊張した。
今日の時間が楽しかったから、また同じような時間を過ごしたいと思ったのだ。
でも、自分から誘うのは、やっぱり少し勇気がいる。
清水君は驚いたように瞬きをしたあと、すぐに微笑んだ。
「いいですね。ぜひ行きましょう」
「本当?」
「はい。優里恵さんと一緒に選ぶのも、楽しそうですから」
その言葉に、胸が弾んだ。
「じゃあ、今度は清水君のおすすめをもっと教えてね。私、まだまだ知らない本がたくさんあるから」
「わかりました。僕も、優里恵さんのおすすめをもっと知りたいです」
「えへへ……約束だよ?」
私は小指を差し出した。
清水君は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに自分の小指を絡めてくれた。
「約束です」
指切りをして、二人で笑う。
ほんの小さな約束。
けれど、私にとっては、とても大切な約束だった。
好きな人と、好きなものを一緒に楽しむ。
そして、相手の好きなものも知っていく。
そんな時間を、これから何度も重ねていけたらいい。
清水君と一緒なら、今まで知らなかった楽しさにも、たくさん出会える気がする。
「……清水君」
「はい?」
「今日は、ありがとう。すごく楽しかった」
「こちらこそ。僕も楽しかったです」
そう言って、清水君は少しだけ照れたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は思った。
やっぱり、私はこの人が好きだ。
自分の気持ちを隠さずに、ちゃんと伝えていきたい。
たとえ、意見が違うことがあっても。
知らないことが、たくさんあっても。
これから二人で知っていけばいいのだから。
私は清水君の隣を歩きながら、次に一緒に読む本のことを考えていた。
今度は、どんな物語に出会えるだろう。
そして、清水君はどんな感想を話してくれるだろう。
そんなことを考えるだけで、自然と笑顔になってしまう。
恋人と一緒に楽しめることが、また一つ増えた。
それが、今の私にはたまらなく嬉しかった。




