私の知らない清水くん
遊園地から帰った翌日。
私は朝から、昨日のことを何度も思い出していた。
観覧車の中で交わしたキスも、帰り道に手をつないで歩いたことも、どれも昨日の出来事なのに、目を閉じるとついさっきのことのように鮮明に蘇ってくる。
思い出すたびに頬が熱くなってしまうのが分かって、私は通学途中だというのに小さく息を吐いた。
「……昨日は、ちょっと大胆だったかな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、すぐに首を振る。
でも、嫌だったわけじゃない。
むしろ嬉しかった。
清水君と一緒にいる時間が楽しくて、もっと近くにいたいと思えたから、自分からあんなことをしたのだ。
前の私なら、そんなことは考えられなかった。
相手に嫌われないように、相手が望む自分になろうとして、自分の気持ちなんて後回しにしていた。
それが今は、自分がどうしたいのかを少しずつ考えられるようになっている。
そう思うと、昨日のことが余計に嬉しく感じられた。
学校に着いて教室へ向かい、いつものように自分の席へ荷物を置く。
そのまま何気なく廊下へ視線を向けた私は、そこで足を止めた。
少し離れたところに、清水君がいる。
何人かの男子と話をしていて、時折笑いながら何かを返していた。
「……あれ?」
私は思わず立ち上がりかけて、そこでようやく気づいた。
私が普段一緒にいる清水君とは、少し違って見える。
二人きりでいる時は、落ち着いていて、私のことを気遣ってくれて、時々照れたような表情を見せる。
でも、友達といる時は普通の男の子みたいに笑っていて、自然に会話をしている。
当たり前のことなのに、私はそんな姿をあまり見たことがなかった。
その時、清水君の近くを通った女の子が足を止めた。
「清水君、おはよう」
「おはよう」
清水君はいつも通りに挨拶を返し、その女の子と少しだけ言葉を交わしてから、また友達との会話へ戻った。
それだけのことだった。
なのに、なぜか私はその様子が気になってしまう。
「……何だろう」
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
私は自分でもよく分からないまま席に戻った。
「どうしたの?」
近くにいた友達が、私の顔を見て首を傾げる。
「え?」
「さっきからぼーっとしてない?」
「そ、そうかな」
慌てて笑って誤魔化したものの、自分でも変だと思う。
授業が始まっても、さっき見た光景が頭から離れない。
清水君は、私の知らない場所で、私の知らない人たちと話している。
当然のことだ。
学校が違えば、友達が違うのも当たり前。
私だって清水君が学校で誰と話そうと、文句を言うようなつもりはない。
それなのに、昼休みになって廊下へ出た時、清水君が友達と話している姿を見かけると、また胸の奥がざわついた。
「……嫌だな」
ふと漏れた言葉に、自分で驚いた。
何が嫌なのかも、はっきりとは分からない。
ただ、胸の奥に小さな棘が刺さっているような感覚だけが残っていた。
それと同時に、私は別のことも考えていた。
私の前では見せない笑い方。
私が知らない友達との会話。
そんな姿を見ていると、不思議なことに、少しだけ気になってくる。
もっと、知りたい。
清水君が学校ではどんなふうに過ごしているのか。
どんな友達と一緒にいて、どんな話をして笑うのか。
今まで知らなかったことを、もっと知りたい。
そう思ったところで、私はまた自分の胸の奥にある別の感情に気づいた。
知りたいと思うのに、同時に知らないことが怖い。
その矛盾が、自分でも少しおかしかった。
そして放課後。
私は昇降口へ向かう途中で、清水君と顔を合わせた。
「あ、優里恵さん」
私を見つけた清水君が、いつものように笑う。
「お疲れさまです」
「うん。清水君もお疲れさま」
そう返したものの、私は少しだけ視線を逸らした。
昨日までなら、顔を見るだけで嬉しくなっていたはずなのに。
今日は、聞きたいことがある。
「清水君」
「はい?」
「……ちょっと聞いてもいい?」
「もちろんです」
清水君は不思議そうにしながらも、私の顔をまっすぐ見ている。
その視線に背中を押されるように、私はゆっくり口を開いた。
「清水君って、学校では……結構人気あるの?」
「え?」
清水君が目を丸くする。
その反応を見た瞬間、自分が何を聞いたのか急に恥ずかしくなった。
「い、いや、ほら。今日、女の子と話してるところを見たから……」
「女の子と?」
「うん」
私は視線を落とし、指先を小さく動かした。
「それで……」
そこで言葉が詰まる。
何をどう説明すればいいのか、自分でも分からない。
でも、誤魔化したくはなかった。
「……ちょっと、嫌だったの」
「嫌?」
「うん」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
「私、清水君が学校で誰と話しててもいいって分かってるんだけど。でも、なんていうのかな……」
一度息を吸ってから、私は小さな声で続けた。
「私の知らない清水君がいるんだなって思ったら……少しだけ、不安になった」
しばらく返事がなくて、私は恐る恐る顔を上げた。
清水君は、驚いたような顔をして私を見ている。
「……優里恵さん」
「な、何?」
「それって、嫉妬してくれたんですか?」
「えっ!?」
一気に顔が熱くなった。
「ち、違っ……いや、違わない……のかな」
否定しようとしたのに、最後まで言い切れない。
自分でも、嫉妬しているのだと気づいてしまった。
「……私、こんなことで嫉妬するんだ」
恥ずかしさに耐えきれず、私は俯いた。
「重いって思われないかな……」
すると清水君が、少し困ったように笑った。
「すみません。ちょっと嬉しくて」
「嬉しいの?」
私は顔を上げて、驚いたように清水君を見る。
「はい」
「どうして?」
「優里恵さんが、それだけ僕のことを気にしてくれてるって分かったからです」
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
私はしばらく黙ってから、ほんの少しだけ頬を膨らませる。
「……でも、私はちょっと困ってる」
「困ってる?」
「うん。今までこんなこと、気にしたことなかったから」
昔だったら、嫌われないために自分を変えることばかり考えていた。
でも今は違う。
好きだからこそ、相手が他の誰かと仲良くしていると気になる。
それに、もっと清水君のことを知りたいと思っている自分もいる。
それが恋人になるということなのかもしれない。
「僕も、優里恵さんが不安になることがあるなら、ちゃんと話したいです」
清水君はそう言って、少し考えるように目を伏せた。
「だったら……明日、一緒に帰りませんか?」
「え?」
「今までは、外で会うことが多かったですけど、学校ではあまり一緒にいませんでしたよね」
「……そうだね」
「だから、学校で一緒に帰るところからでも、少しずつお互いのことを知っていけたらと思って」
私は清水君の顔を見つめた。
学校で一緒に帰る。
その言葉を頭の中で何度も繰り返す。
今までの私たちは、二人で会う時だけ恋人だった。
でも、これからは。
学校という、たくさんの人がいる場所でも、清水君と私は恋人なんだ。
「……うん」
私は小さく頷いた。
「一緒に帰りたい」
「じゃあ、明日、一緒に帰りましょう」
清水君が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ているうちに、さっきまで胸の中にあった不安が、少しだけ薄れていくのを感じた。
それでも、私はまだ知らない。
学校で過ごす私たちが、これまでとはどんなふうに違って見えるのか。
そして、周りの人たちが私たちの関係をどう見るのか。
教室へ戻る途中、私はふと明日のことを考えた。
「……学校で一緒に帰るんだ」
そう呟くと、胸の奥がまた少しだけ熱くなる。
嬉しい。
でも、それと同時に、ほんの少しだけ緊張する。
明日は、誰かに見られるかもしれない。
今まで二人きりだった恋人としての時間を、学校という場所でも過ごすことになるのだから。
もしかしたら、誰かに「清水君と付き合ってるの?」なんて聞かれるかもしれない。
そんなことを考えると、途端に頬が熱くなった。
でも、それだけじゃない。
明日になれば、今日まで知らなかった清水君のことを、もう少し知ることができるかもしれない。
学校で友達と話している時の笑顔も。
私の知らない話し方も。
まだ私が知らない、清水君の新しい一面も。
「……明日、楽しみかも」
そう思いながら、私は少しだけ笑った。
さっきまでの不安とは違う。
今度は、どんな清水君に会えるのかを楽しみにしながら、私は明日を待つことにした。




