第23話「均衡の崩壊」
王都出立の三日前。
均衡は、音もなく割れた。
夜半、南東部の森の管理小屋が襲撃された。
火は放たれなかった。
だが窓は割られ、帳簿が奪われ、見張りの商人二名が負傷した。
犯人は逃走。
だが今回は、目撃者がいた。
「若い男たちでした」
震える声で証言する村人。
「顔は布で隠していたが……」
視線が揺れる。
誰もが同じ名を思い浮かべる。
エドガー。
城下は騒然となった。
商人側は即座に抗議。
『契約の重大な侵害。治安維持能力に疑義あり』
騎士団は緊急招集。
セルマが報告する。
「襲撃は計画的。帳簿だけを持ち去った」
「目的は」
「不明。だが象徴的だ」
契約の帳簿。
合意の証。
それが奪われた。
アリアは即座にエドガーを呼び出す。
講堂に現れた彼の顔は、青ざめていた。
「関与していません」
先に言った。
「信じてほしい」
その目は揺れている。
嘘ではない。
だが何かを知っている目だ。
「誰がやった」
静かに問う。
沈黙。
やがてエドガーが唇を噛む。
「……一部の仲間が、過激になっている」
空気が凍る。
「止めなかったの」
「止めました」
声が震える。
「ですが、商人は敵だと」
その言葉。
敵。
アリアの胸が冷える。
「敵と定義した瞬間、合意は消えると言ったはず」
「分かっています!」
思わず声を荒げるエドガー。
「ですが、彼らは聞かない」
理屈が武器になった。
その刃が、制御を失い始めている。
「どこにいる」
「分かりません」
嘘ではない。
だが遅い。
その夜、城下で商人の倉庫前に若者たちが集まり始める。
怒号。
「契約を破棄しろ!」
「森を返せ!」
石が投げられる。
騎士団が出動。
剣は抜かない。
だが緊張は限界。
アリアは現場に向かう。
「下がりなさい!」
声を張る。
群衆がざわめく。
「令嬢は商人側だ!」
誰かが叫ぶ。
その一言で、空気が裂ける。
敵味方の線が引かれる。
アリアは一歩前に出る。
「商人側ではない」
静かな声。
「この領地側よ」
「なら森を返せ!」
「契約を破れ!」
怒号が重なる。
セルマが低く言う。
「限界だ。押し戻すか」
押し戻せば、負傷者が出る。
剣を抜けば、血が流れる。
王都出立三日前。
ここで流血すれば、すべてが崩れる。
アリアは息を吸う。
「帳簿は、戻らなければ契約違反」
群衆が静まる。
「戻さなければ、森は本当に失われる」
ざわめき。
「あなた方が守りたい森が、失われる」
沈黙。
理屈は届くか。
「犯人を引き渡しなさい」
静かな声。
「自首すれば、命は守る」
重い言葉。
背後で騎士団が剣を地に打つ。
威嚇ではない。
誓約の音。
しばらくの沈黙の後、群衆の中から三人の若者が前に出る。
顔は青白い。
その中に、エドガーの友人の姿。
「俺たちがやった」
震える声。
「商人を怖がらせれば、契約は破棄されると思った」
純粋な理屈。
愚かな理屈。
アリアは目を閉じ、ゆっくり開く。
「森を守るために、森を失うところだった」
若者たちは黙る。
「拘束する」
セルマが命じる。
剣は抜かれない。
だが手枷がはめられる。
群衆は沈黙した。
均衡は、崩れかけた。
だがまだ、完全には落ちていない。
夜、執務室。
「処罰をどうしますか」
ミレイユが問う。
法に従えば重罪。
だが重罰は若者たちを殉教者にする。
軽罰は商人の不信を招く。
アリアは長く沈黙する。
理想を守るか。
合意を守るか。
どちらも同じではない。
均衡は崩れた。
あとは、選ぶしかない。
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