第二章 十一節 旅籠の夕餉
「俺は後で良いから、ヨドとコユキが先に入れば良い。」
課長はソファでくつろぎながら、気さくにそう言った。
「え?良いんですか?」
「俺はしばらく冷たいものを飲みながらゆっくりしてる。露天風呂は女性陣から先に入ってくれ。」
課長の一言に私は思わず頬が緩んだ。
「だって!ヨド、一緒に入ろうよ。」
「構わんぞ。」
さっきまで不機嫌だったヨドの表情が、ほんの少し柔らいでいた。
「カチョー、では先に頂く。」
私とヨドは脱衣所に向かった。
服を脱ぎながら思わず鼻歌が出る。
横を見ると、ヨドは黙々と衣服を脱ぎ、そのまま露天風呂へ歩いていった。
私も続いて露天風呂へ向かった。
湯気が立ちこめ、視界が少しかすむ。
岩造りの浴槽には、獣の石像から絶えず湯が注がれていた。
その石像をよく見てみる。
どこかで見たことがある気がした。
……ロクアシドラだ!
あれに踏まれたんだよな……。
思い出した瞬間、脇腹がじんとした。
そんなことを考えている間に、ヨドは浴槽の中で既にご機嫌だった。
私はかけ湯をしてから、浴槽に入った。
湯は少し熱く感じるが、心地よい温度だ。
ふと外を見ると、山並みの景色に湯気が溶け込んでいる。
張り詰めていたものがほどけていく。
私は久しぶりに心から安堵を感じていた。
ふとヨドを見ると、湯気に包まれながら珍しく穏やかな表情を浮かべていた。
「最初は馴染めそうになかったが、なかなか良いな」
不意に、そんな言葉をこぼした。
「うん、温泉って気持ちいいよね」
私も笑顔で返した。
木々を揺らす風の音と、鳥の鳴き声が聞こえた。
温泉を堪能して脱衣所に戻った。
すっかり身体の芯まで温まった。
ふと、そこにある布に目が止まった。
どうやら部屋着のようだ。
ヨドは既に身体を乾かし終え、元の衣服を着ようとしていた。
「ちょっと待って。ヨド、これ着ようよ。」
「なんだそれ?」
「部屋でくつろぐための服だよ。」
ふーん、という顔で部屋着を眺めていたヨドは、元の服を置き、薄い紫の部屋着を手に取った。
「なんだこれ?かなりさらさらしているぞ!」
そう言って、その部屋着を羽織った。
「こんな服は着たことがない。」
ヨドが驚いている間に私は薄紅色の部屋着を羽織って前の紐を結んだ。
……気持ちいい
思わず顔が綻んだ。
そして、課長が居るリビングへと戻った。
「お先にごちそうさまです。」
私は課長に声をかけた。
課長はコップを持ったまま私の方に顔を向けた。
「おう、ゆっくり寛げ……」
課長の表情が引きつり、コップを落とした。
……どうしたんだろう?
後ろに振り向く。
……ぶっ!?
目に飛び込んできた光景に、私は危うく盛大に吹き出しそうになった。
紐が完全に解け、前が大きくはだけている。
当の本人は「ん? どうした?」と首をかしげている始末だ。
「ちょ……ちょっと、ヨド! 前! 前開いてる!!」
私は慌ててヨドの紐を結んだ。
課長は後ろ向きにかがんだまま、肩をわずかに震わせていた。
そこで扉をノックする音が聞こえた。
「は、はいっ!」
私は顔を赤くしたまま扉に駆け寄り、扉を開けた。
そこには部屋に案内してくれたエルムの男性と女性が立っていた。
「お食事をお持ちいたしました。ご用意させて頂いて構わないでしょうか?」
男性が部屋を見渡し、突っ立っているヨドと、後ろ向きにかがんでいる課長を見て、男性の視線が一瞬だけ揺れた。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ!なんでもないです!大丈夫です!課長も、もう大丈夫ですから!」
私の声に反応して課長はゆっくりと立ち上がった。
「失礼いたしました。準備して頂いて大丈夫です。」
課長の声は少し震えていた。
「では、失礼いたしますね。」
エルムの二人は慣れた手つきで料理を並べていく。
あっという間にテーブルは豪華な料理で埋め尽くされた。
「では、ごゆっくりおくつろぎくださいませ。」
一礼してエルムの二人は去っていった。
一瞬、部屋に静寂が流れた。
「とにかく、食べるか。」
課長が取りまとめようとして言った。
「……そうですね。」
「よし、食うぞ。」
「でも……ヨド……」
「なんだ?」
「もう少し気にして欲しい……」
「なにをだ?」
ヨドは既に皿とフォークを持っていた。
課長が深くため息をついた。
「……いただきます。」
課長も皿を取った。
……ヨドには後でちゃんと言う!
一旦気持ちを切り替えてテーブルを見渡した。
根野菜の煮物。
スパイシーな香りがする肉の角切り。
それと蓋が付いている小ぶりの鍋。
そして、魚の塩焼きが一人前ずつ置かれていた。
ん?……魚?
「魚もあったんだ。」
口からこぼれた。
「ん?魚は結構食べたぞ。」
課長が言った。
「これやる。」
ヨドは焼き魚を私の前に置いた。
「え?ヨド食べないの?」
「食いにくいから要らん。」
「……骨か。」
課長が呟いた。
……そういうことか。
……でも、私一人じゃそんなに食べられないな。
「要らんのなら俺が食っても良いか?」
「食べてください。」
私は快く課長に譲った。
テーブルの上の長い棒二本の食具に目が留まった。
……お箸だ。
それを手に取る。
削りたての木の香りが残っていた。
それを使って魚をほぐして口に入れる。
木の優しい香りと焼き魚の香ばしさが口いっぱいに広がる。
思わず声が漏れた。
「美味しい!」
「コユキ、顔が緩んでるぞ。」
優しい目でヨドが言った。
「ヨドは服が緩んでたけどね。」
課長は思わず咳き込んだ。
少しヨドが困った顔をした。
「……それはともかく、この魚本当に美味しいよ。何の魚か知らないけど。」
「これはキギスと言うらしい。脂が乗っていて、焼くと旨みが出るとのことだ。」
不意に課長が言った。
「なんで課長、そんなこと知ってるんですか?」
「バタン殿が教えてくれたんだよ。」
「そんな細かい事まで教えてくれたんですね。」
「ああ、ベッコーは港町でな。色んな魚が獲れるんだ。」
「私は肉が良い。」
ヨドは肉の角切りを食べながら言った。
……魚美味しいのになぁ
根野菜の煮物は魚の出汁が効いていて美味しい。
肉の角切りも一つ掴んで食べる。
スパイシーで美味しい。
そういえば、鍋もあるんだった。
鍋の蓋を取ると、湯気とともに優しい香りが広がった。
課長も蓋を取っていて眼鏡が曇っていた。
野菜と肉が一緒に煮込まれていた。
置いてあった木のスプーンで掬って一口。
野菜の下に隠れていた白い粒に気付く。
……お米!
「雑炊だこれ……」
「雑炊だな。」
課長も続いた。
今は眼鏡は光っていなかった。
「熱っ!……でも旨いぞこれ。」
ハフハフしながらヨドは食べていた。
課長はおもむろに立ち上がって保冷器から一本の瓶を持ってきた。
「せっかくだ。果実酒も頂こうじゃないか。」
課長はヨドと私のコップに果実酒を注いだ。
そして、自分のコップにも注ぐ。
異世界に飛ばされたばかりの頃は、こんな風に穏やかな時間が訪れるなんて思いもしなかった。
温かい温泉と、美味しいご飯。
そして、呆れるくらい楽しい仲間。
今は……とても幸せだ。




