三十四話 三十日目ーー最後の一日
三十日目の朝。
いつもと変わらない波の音で目が覚めた。
空は雲ひとつない青空。
潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、私はゆっくりと起き上がる。
「今日で……終わるのかな」
誰に聞かせるでもない言葉は、静かな浜辺に溶けていった。
焚き火の灰をかき分け、残っていた熾火に細い枝を乗せる。
ほどなくして炎が立ち上る。
この火を起こすことにも、もう迷いはない。
初日は何度挑戦しても火がつかず、焦りと不安で手が震えていた。
今では、火の機嫌さえ分かるようになっていた。
朝食を済ませ、海を歩く。
波打ち際には小さな貝殻が並び、風は穏やかだった。
島は、いつもと何ひとつ変わらない。
変わったのは、私だけだった。
この三十日で、私は生きる術をを覚えた。
食べ物を探し、水を確保し、雨風をしのぎ、孤独と向き合い、恐怖を乗り越えてきた。
最初は「楽しみ」と思えた生活の中で「帰りたい」と思う瞬間もあった。
その中でも私は確かに生きていた。
拠点へ戻ると、小屋の前に立ってしばらく眺めた。
流木を組み、葉を重ね、何度も補修した屋根。
焚き火を囲む石。
肉を干す棚。
どれも、この島で生き抜くために自分の手で作ったものだった。
「ありがとう」
自然と口から言葉がこぼれる。
もちろん返事はない。
それでも、不思議と伝わった気がした。
昼過ぎ、私は島をゆっくり歩いた。
初めて海へ流れ着いた浜辺。
飲み水を見つけた場所。
木の実を採った森。
何度も魚を釣った岩場。
一つ一つが思い出になっていた。
あれほど憎かった島が、今では少しだけ愛おしい。
もし今日で終わるなら、この景色を見るのも最後かもしれない。
そう思うと、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
夕暮れが近づくころ、私は焚き火の前に座り、空を見上げた。
そこには、いつものように一機のドローンが静かに飛んでいる。
初日は監視されているようで落ち着かなかった。
けれど今では、その姿を見ると安心する。
私は立ち上がり、小さく手を振った。
「三十日間、お疲れさま」
ドローンは静かに旋回する。
「見守ってくれて、ありがとう」
名前も顔も知らない。
それでも私は、一人ではなかった。
私は最後の晩餐の支度を始めた。
今日だけは贅沢をしよう。
保存しておいたヤギ肉を取り出し、焚き火でじっくりと焼く。
脂が炭火に落ちるたび、香ばしい匂いが辺りに広がっていく。
焼き魚に、貝、採れた果実や木の実も並べた。
豪華な料理ではない。
それでも、この島で生き抜いた三十日間の集大成とも言える食卓だった。
「いただきます」
まずは山羊肉を一口。
噛むほどに旨味が広がる。
あの日、必死に追いかけ、ようやく仕留めた一頭。
あの時は、生きるために必死だった。
その命が、こうして最後まで私を支えてくれた。
「ありがとう」
思わず笑みが溢れる。
「今日は感謝してばっかだな」
魚も、貝も、木の実も、果実も、この島が与えてくれた恵みだ。
一口ずつ、ゆっくりと味わう。
明日になれば、もうこの食事をすることはないかもしれない。
だから私は、最後の一口まで噛みしめるように味わった。
食べ終えると、静かに手を合わせる。
「ごちそうさま」
そして私は、目の前に広がる島へ向かって、もう一度だけ頭を下げた。
「三十日間、本当にありがとう」
波の音だけが静かに返事をしてくれた。
私は焚き火の火を見つめながら、最後の夜を迎えた。




