三十二話 二十五日目ーー足るを知る
朝。
目が覚めると最初に感じたのは、体の軽さだった。
「……治った」
額に手を当てる。
熱はない。
節々の痛みも消えている。
昨日一日、何もしなかった。
正直、休むことに罪悪感はあった。
だが今なら分かる。
休むことも、生き延びるための選択だ。
海はゆっくりと立ち上がった。
勢いよく動かない。
焦らない。
昨日、父を思い出したばかりだからだ。
◇
まず向かったのは湧き水だった。
岩壁の割れ目から、今日も静かに水が滴っている。
ぽたり。
ぽたり。
台風直後ほどではないが、それでも十分な量だ。
業務用ペットボトルへ水を移す。
透明。
匂いもない。
一口飲む。
冷たい。
「今日も、よろしくね」
自然とそんな言葉が漏れた。
誰に返事を求めるでもない。
ただ、そう言いたくなった。
◇
拠点へ戻る。
灰の中には、昨夜の熾火。
小枝を乗せ、ふっと息を吹く。
ぱち。
炎が立つ。
「こっちも元気そうだ」
火も、水も。
もう”探すもの”ではなくなっていた。
守るもの。
育てるもの。
◇
午前。
魚罠を見に海岸へ向かう。
大型ペットボトルをゆっくり引き上げる。
ばしゃり。
小魚が三匹。
もう一本。
カニが二匹。
十分だった。
以前なら喜びで叫んでいた。
今日は違う。
「ありがとう」
静かに頷くだけだった。
必要な分だけ持ち帰る。
それで十分。
◇
帰り道。
森の奥で、白い影が動いた。
山羊。
向こうも海に気づいて立ち止まる。
しばらく見つめ合う。
以前なら、真っ先に罠を確認していた。
肉。
その二文字しか頭になかった。
でも今は違う。
干し肉は、まだ残っている。
あの命は、今日まで私を生かしてくれた。
だから。
今日、新しい命を奪う理由はなかった。
「元気そうだな」
山羊は一度だけ鼻を鳴らすと、森の奥へ歩いていく。
追わない。
追う必要がない。
海も、その背中を見送った。
◇
午後。
山羊用に設置していた輪罠へ向かう。
木に結ばれたナイロンロープ。
踏み固められた獣道。
海はしゃがみ込み、ゆっくりと罠を外し始めた。
結び目をほどく。
石をどける。
落ち葉を元に戻す。
設置した時よりも丁寧に。
「もう、いいや」
ロープは貴重だ。
魚罠の補強に使える。
拠点の修繕にも使える。
命を奪うためではなく、
命を守るために使おう。
そんな考えが自然と浮かんでいた。
◇
夕方。
火を囲み、小魚を焼く。
焼きバナナも添える。
干し肉は今日は食べない。
保存しておく。
火加減を見ながら、海はふと笑った。
「食べたいものじゃなくて、食べるものを考えるようになったね」
いつの間にか、
生活になっていた。
◇
食事を終え、空を見上げる。
木々の隙間から夕焼けが覗いている。
「あと五日か……」
最初の頃は、一日が果てしなく長かった。
今は違う。
この島にも、朝があり、昼があり、夜がある。
その繰り返しの中で、生きる術を覚えた。
そして、生き方も少しだけ変わった。
自然は、敵じゃない。
味方でもない。
ただ、そこにある。
だからこそ。
与えてもらったものを忘れず、必要以上は求めない。
父の言葉が、今になって胸に染みる。
二十五日目。
私はようやく、
“足るを知る”ということを覚えた。




