三十一話 二十四日目ーー海の名前
朝。
体が重い。
いや。
重いというより、動かない。
目を開ける。
天井代わりのバナナの葉がぼやけている。
「……あれ」
起き上がろうとする。
腕に力が入らない。
昨日食べた干し肉が悪かったのか。
それとも疲労か。
ここ数日、ヤギの解体、燻製、罠の設置。
気づけば、ずっと動き続けていた。
熱がある。
喉は乾いていない。
水はある。
それでも、体が言うことを聞かない。
「……今日は、休もう」
そう口にしたのは、この島で初めてだった。
◇
昼。
火は小さく燃えている。
薪は十分ある。
水もある。
干し肉も残っている。
焦る理由はない。
それなのに。
胸だけが落ち着かない。
何もしないことが怖い。
今日動かなければ、明日生きられない。
そんな生活を二十日以上続けてきた。
だから休み方が分からない。
「……馬鹿だな」
少し笑う。
笑った拍子に頭がくらりと揺れた。
そのまま岩壁にもたれかかる。
瞼が重い。
意識が沈む。
◇
――潮の匂い。
懐かしい声。
「海」
優しい男の声。
小学生の頃。
父と二人で行ったキャンプ。
焚き火の前。
夜の海を眺めながら、父が聞いた。
「自分の名前、好きか?」
『うん。でも、なんで海なの?』
父は笑った。
『海ってさ、不思議なんだ』
波の音。
ぱち、と薪が鳴る。
『魚をくれる。水はくれない。でも雨を運んでくる』
『綺麗な景色も見せてくれるし、津波で全部奪うこともある』
『優しい日もあるし、怖い日もある』
幼い海は首を傾げる。
『どっちなの?』
父は少しだけ考え、笑った。
『どっちでもない』
『自然は、人間に何もしない』
『助けようとも思ってないし、苦しめようとも思ってない』
『ただ、そこにあるだけなんだ』
波が静かに寄せる。
『だからね』
父は海の頭を優しく撫でた。
『与えてもらった時に、それを当たり前だと思わない人になってほしい』
『魚が釣れたらありがとう。』
『雨が降ったらありがとう。』
『風が気持ちよかったらありがとう。』
『そう思える人は、きっと強い』
幼い海は笑った。
『じゃあ、ありがとうっていっぱい言う!』
父は少し困ったように笑う。
『でも、無理に言わなくてもいい』
『感謝っていうのは、言葉じゃなくて、忘れないことだから』
◇
「……父さん」
目が覚める。
夕方だった。
火はまだ生きている。
炭が赤く光っている。
外では風が葉を揺らしていた。
夢。
いや。
思い出。
「そうだったな……」
この島へ来てから。
火を手に入れた。
水を見つけた。
魚を獲った。
山羊も獲った。
そのたびに。
私はいつも、
「勝った」
と言っていた。
間違いじゃない。
でも。
全部、自分一人じゃない。
岩があった。
雨が降った。
木が育った。
魚が泳いだ。
自然は何もしていない。
ただ、そこにあった。
私は、それを使わせてもらっただけだ。
海はゆっくり立ち上がる。
まだ少しふらつく。
それでも歩ける。
湧き水を汲む。
冷たい水を一口飲む。
「……ありがとう」
誰もいない森。
返事はない。
でも、それでいい。
父が言っていた。
感謝は、言葉じゃない。
忘れないこと。
その意味が、ようやく少し分かった気がした。
◇
夜。
熱は少し下がったはず。
今日は何もしない。
火を見ながら、干し肉を少しかじる。
焦らない。
急がない。
この島は逃げない。
二十四日目。
私は、生き方を一つ思い出した。




