二十九話 二十二日目ーー命の重さ
朝。
森は、何も知らない顔をしていた。
鳥は鳴き、風が葉を揺らす。
昨日と変わらない景色。
変わるとすれば、それは人間のほうだ。
海は腰にナイフを差し、獣道へ向かった。
「……さて」
胸が少しだけ高鳴る。
期待しない。
期待すると、外れたときに疲れる。
だからいつも通り。
確認するだけ。
◇
一つ目。
落ち葉は、そのまま。
輪も動いていない。
「うん」
予想通り。
二つ目。
ここも変化なし。
「まぁ、そんな簡単じゃ――」
言葉が止まる。
三つ目。
獣道の先。
枝が揺れている。
風じゃない。
何かが、暴れている。
「……!」
海は反射的に身を低くした。
葉の隙間から覗く。
白い毛。
角。
山羊だ。
輪罠が後ろ脚に食い込み、木に繋がれたナイロンロープが大きく張っている。
逃げようと飛び跳ねるたび、輪が締まる。
「……かかった」
思わず息を止めた。
本当に、かかった。
山羊はこちらに気付く。
目が合う。
暴れる。
地面を蹴る。
枝が折れる。
低く鳴く。
海は動かなかった。
距離を詰めれば危ない。
角もある。
体格だって、自分よりずっと大きい。
興奮した動物は何をするか分からない。
焦るな。
まず見る。
ロープ。
結び目。
木。
切れそうか。
逃げられそうか。
一つずつ確認する。
大丈夫。
まだ保っている。
◇
「……ごめん」
その言葉は、自然と口からこぼれた。
謝っても意味はない。
山羊は生きたい。
自分も、生きたい。
どちらかしか選べない。
だから謝る。
そして、食べる。
それが、生きるということだ。
海は少しずつ距離を詰める。
山羊は暴れる。
逃げる。
ロープが木を軋ませる。
あと一歩。
山羊が角を振る。
海は横へ飛び退く。
危ない。
想像以上だった。
「……本当に命懸けだ」
鳥とは違う。
相手も、生きるために戦っている。
深く息を吸う。
ナイフを握る。
迷わない。
迷ったほうが危ない。
山羊が再び頭を下げる。
突進。
その勢いでロープが張る。
体勢が崩れる。
その一瞬だった。
海は横へ回り込み、首元へナイフを突きつける。
押さえる。
全身で体重をかける。
暴れる。
蹴られる。
腕が痛い。
必死だった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
ほんの数十秒だったのかもしれない。
やがて、山羊の力が、少しずつ抜けていく。
森が静かになった。
◇
荒い息だけが響く。
海はその場に座り込んだ。
汗が止まらない。
心臓が壊れそうなくらい鳴っている。
「……終わった」
目の前には、大きな命。
さっきまで生きていた。
今は動かない。
鳥を捕まえた日とは、まるで違った。
嬉しい。
安心した。
ただ、胸の奥に、小さな穴が空いたような感覚があった。
◇
海はそっと山羊の頭を撫でる。
毛は思ったより柔らかい。
「ありがとう」
今度は、謝らなかった。
命は謝っても返らない。
だったら。
無駄にしない。
肉も。
皮も。
骨も。
全部使おう。
それが、今の自分にできる礼儀だ。
◇
拠点へ戻る道は長かった。
山羊を引きずるたび、枝葉が揺れる。
重い。
命の重さだった。
夕暮れ。
火が迎えてくれる。
炎を見つめながら、海は静かに呟いた。
「お父さん……」
その先の言葉は、飲み込んだ。
まだ早い。
父を思い出すのは、もう少し先でいい。
二十二日目。
私は、生きるために命を奪った。
そして初めて、命をいただくという言葉の意味を知った。




