二十五話 十九日目――生還
朝。
……静かだ。
目を覚ました海は、しばらく耳を澄ませた。
風の唸りはない。
岩壁を震わせていた轟音も、木々を引き裂くような悲鳴も聞こえない。
代わりに聞こえるのは、小さな火のはぜる音だけ。
「……終わった」
思わず息が漏れた。
ようやく、本当に終わったのだ。
海は灰をそっとどけ、小枝を一本、また一本と熾火へ載せる。
ふわり、と炎が立つ。
赤い光が岩壁を照らした。
「よく生きててくれたね」
火へ向けた言葉なのか。
それとも、自分自身へ向けた言葉なのか。
海にも分からなかった。
ただ一つ分かるのは――
守り切った。
その事実だけだった。
◇
まず向かったのは、湧き水だった。
岩壁の割れ目まで慎重に歩く。
台風のあとだ。
浮いた岩や落石が一番怖い。
足元を確かめながら近づく。
その時だった。
と、と、と、と――。
「……え?」
思わず足を止める。
水音が違う。
以前は一滴ずつ落ちていた雫が、今は小さな糸のようにつながって流れている。
「増えてる……」
思わず笑みがこぼれた。
台風が降らせた大量の雨。
岩の奥まで染み込んだ水が、今になって湧き出しているのだ。
容器を差し出す。
透明。
濁りなし。
匂いもない。
一口飲む。
冷たい水が喉を通り、体の奥へ染み込んでいく。
「……生き返る」
自然は厳しい。
でも、生き残った者にはちゃんと返してくれる。
◇
森へ向かう。
台風の爪痕は、想像以上だった。
折れた枝。
倒れた木。
散乱した葉。
思わず息を呑む。
「結構やられたな……」
それでも、バナナの株は全部倒れていたわけではなかった。
しっかり根を張った株は立ったまま実をつけている。
地面には落ちた実も転がっていた。
傷んだ部分を切れば十分食べられる。
青パパイヤも同じだった。
折れた枝の陰に、まだ若い実がいくつも残っている。
自然は奪う。
でも、全部は奪わない。
「……まだ戦える」
それだけで十分だった。
◇
続いて海岸へ向かう。
景色は一変していた。
流木が何本も重なり、浜には見たこともない漂流物が打ち上げられている。
台風は島を荒らした。
その代わり、海の向こうから新しい資源を運んできた。
岩陰に目を向ける。
「……網?」
太いナイロン製の網だった。
破れてはいるが、十分使える。
罠にもなる。
荷物をまとめることもできる。
ロープ代わりにもなる。
「これは大当たりかも」
さらに歩く。
今度は巨大なペットボトルが転がっていた。
数リットルは入りそうな大型容器。
しかもキャップ付き。
「でかっ」
思わず笑ってしまう。
一時間ほど歩き、同じものを三本回収した。
これだけあれば湧き水を大量に備蓄できる。
もしまた台風が来ても、水で困ることは減る。
「ありがたく使わせてもらいます」
台風は、多くを壊した。
でも、新しい可能性まで運んできてくれた。
◇
拠点へ戻る。
火は燃えている。
水は増えた。
食料も確保できそうだ。
そして、資源も増えた。
網を広げる。
大型ペットボトルを並べる。
頭の中では、もう次の計画が動き始めていた。
新しい罠。
水の備蓄。
もっと効率のいい生活。
考えるだけで、少し楽しくなる。
だが今日は作らない。
台風のあとほど危険な日はない。
浮いた石。
折れかけた枝。
見えない危険は、まだ森のあちこちに残っている。
「今日は整理だけ」
焦らない。
急がない。
それが、この島で学んだことだった。
◇
夕暮れ。
火にかざしたバナナの皮が黒く色づく。
甘い香りが、静かな森へ広がった。
焼きたてを頬張る。
「……うま」
思わず笑みがこぼれる。
たった数日前まで、生きることだけで精一杯だった。
今は違う。
生き延びた。
そして、次を考える余裕がある。
十九日目。
海は、ただ生き残っただけじゃない。
嵐を越え、もう一度前へ進み始めた。




