二十二話 十六日目ーー序章
目が覚めた瞬間、違和感があった。
空気が、重い。
昨日までの湿気とは違う。
肺の奥にまとわりつくような、生ぬるい圧。
呼吸をするたび、身体が「何かがおかしい」と訴えてくる。
「……来るな」
海は窪みの外へ出た。
空は白く濁り、厚い雲が幾重にも重なっている。
雲は流れていない。
空全体が、一枚の重い蓋になったようだった。
波の音も違う。
低く。
重く。
腹の底へ響いてくる。
耳を澄ます。
いつもなら聞こえる鳥のさえずりが、ほとんどない。
虫の声まで少ない。
自然は、人間より先に異変を知る。
だから海は確信した。
「今日は備える日だ」
編集者時代、災害特集の記事を何度も担当した。
取材先で、防災の専門家が言っていた言葉を思い出す。
「台風は、来てから動くものじゃない。来る前に終わらせるものです」
その意味が、今ならよく分かる。
◇
午前。
最初に決めた。
外の拠点は、最悪捨てる。
執着は死に直結する。
十日以上かけて作った屋根。
風除け。
乾かした薪。
全部、自分の努力の結晶だ。
でも。
「命より重い拠点なんて、ない」
海は迷わなかった。
最終防衛地点は、岩壁下の窪み。
高さがある。
風を遮る。
飛来物も受けにくい。
雨も入り込みにくい。
台風を耐えるなら、ここしかない。
◇
次は火。
ここだけは絶対に失えない。
外の火床から熾火だけを慎重に取り出す。
灰ごとシャコガイの殻へ移す。
炭が転がらないよう灰を寄せ、乾いたヤシ繊維を周囲へ詰める。
「頼むぞ……」
ゆっくり。
一歩ずつ。
岩壁の窪みへ運ぶ。
火床を組み直す。
石を積み直す。
風向きを確認する。
ここで一番怖いのは、一酸化炭素だった。
雨を避けようと入口を塞げば、今度は煙が逃げなくなる。
密閉は、安全ではない。
静かな死だ。
流木と太い枝を組み合わせ、ツタで固定する。
柵のように並べる。
飛来物は防ぐ。
でも空気は通す。
煙を見つめる。
上へ昇る。
外へ流れる。
滞留しない。
数分間、呼吸を確認する。
「……大丈夫」
小さく息を吐いた。
◇
午後。
次は罠だ。
鳥用の落石罠。
山羊用の輪罠。
昨日までなら、肉が獲れる期待しかなかった。
でも今は違う。
「まず、生き延びる」
罠はまた作れる。
人間は、作り直せる。
でも命は一度しかない。
石。
ロープ。
使えそうな枝。
全部、窪みへ運び込む。
燻製にした鳥肉はさらに煙へ当てる。
湿気で傷まないよう、高い位置へ吊るす。
バナナもまとめる。
湧き水を汲み、ペットボトルもシャコガイも満たす。
台風の最中に外へ出る選択肢はない。
ならば、今やるしかない。
編集者だった頃、締切前になると必ず準備を終わらせていた。
修羅場になってから慌てても遅い。
その癖が、今は命を守っている。
◇
夕方。
風が変わった。
森全体が、一斉にざわめく。
葉が裏返る。
木々が低く唸る。
次の瞬間。
ドンッ!
どこかで岩が落ちる音。
遅れて、地面がわずかに震えた。
突風が窪みの入口へ叩きつける。
柵が軋む。
枝が震える。
砂と細かな葉が吹き込み、思わず目を閉じた。
「……まだ、序章だよね」
誰に聞くでもない。
返事もない。
空は完全に鉛色へ変わっていた。
遠くで雷が鳴る。
低く。
長く。
海は火を見つめる。
炭を寄せる。
炎を最小限にする。
攻めない。
狩らない。
動かない。
今必要なのは、耐えることだけ。
自然は努力を評価しない。
準備を褒めることもない。
ただ。
準備が足りなかった者から、容赦なく奪っていく。
夜が訪れる。
風はさらに強くなった。
岩壁の外で、太い枝が裂ける音が響く。
一本ではない。
二本。
三本。
森そのものが悲鳴を上げているようだった。
海は膝を抱え、揺れる炎を見つめる。
「全部終わったら……また、一からやり直そう」
その言葉を飲み込むように、
轟音とともに、最初の大粒の雨が岩壁を叩いた。
本当の地獄が、始まる。




