十六話 十一日目――引っ越し
朝。
新しい拠点で迎える、最初の朝。
森の中は海岸よりも空気が柔らかい。
潮の匂いは薄れ、代わりに湿った土と木々の香りが鼻をくすぐる。
「……マイナスイオン、すご」
思わず笑う。
耳を澄ませば、聞こえるのは波音ではなく鳥のさえずりと葉擦れの音。
昨日までとは、まるで別の島みたいだった。
焚き火へ近づく。
灰の中へ指先を差し込む。
まだ温かい。
赤く残る熾へヤシの繊維を乗せ、ゆっくり息を吹きかける。
ふわり。
小さな炎が立ち上がった。
「よし」
海は安堵の息を吐く。
火がある朝。
それだけで安心できる。
十日前の自分なら想像もできなかった。
森は虫が多いかと思っていた。
だが、火を絶やさなかったおかげか、一晩中悩まされることもなかった。
「これなら十分暮らせそう」
新しい拠点は合格だ。
今日はいよいよ完全に生活を移す。
◇
海岸の拠点へ戻る。
最初に火を起こした場所。
初めてヤシの実を割った場所。
初めて魚を捕った日も、
漂流物を見つけて文明を皮肉った日も、
全部ここだった。
「さて、引っ越しますか」
荷物は多くない。
ペットボトル。
空き缶。
シャコガイの殻。
乾かしておいた薪。
少しずつ、新しい拠点へ運んでいく。
その後も何度も往復を繰り返した。
気がつけば、太陽は西へ傾き始めていた。
◇
荷物がなくなった海岸の拠点は、驚くほど静かだった。
屋根は解体され、生活の跡だけが残っている。
「……短かったな」
十日。
されど十日。
確かにここは、自分の最初の家だった。
焚き火の前へしゃがみ込む。
何度失敗しても諦めず、
ようやく灯した最初の火。
寒い夜も、不安な夜も、
この火があったから眠れた。
「ここまで、ありがと」
誰に聞かせるでもなく呟く。
炭を崩し、灰を広げる。
最後に水をかける。
じゅっ。
白い湯気が空へ昇る。
火は静かに、その役目を終えた。
海は立ち上がる。
歩き出す。
三歩目で振り返ってしまう。
もう何もない。
それでも胸が少しだけ痛んだ。
「ばかだなぁ…」
苦笑して頭を掻く。
今度こそ前を向く。
森へ。
もう帰る理由はない。
あそこは思い出になった。
そして、ここから先が本当の暮らしだ。
十一日目。
山田海は、ようやくこの島で――
“暮らす人”になった。




