第27話 飛脚 立待月の五郎
「ウヒョー、こりゃあ速ぇじゃねぇか」
五郎は、風になった。いや、風を突き抜けた。
“この文を待っている人がいる! 俺の足は、誰かのためにあるんだ!”
煙のように流れる線を辿ると、信じられない速度になった。視界は千の切れ端となり、景色は後方へ引きちぎられるように流れ去る。人々は一陣の嵐が通り過ぎたとしか感じず、五郎の姿を識る暇はなかった。
「えっさ、ほいっさ、オラオラ、飛脚のお通りだァ!」
干し草を積んだ馬車をかすめ、巻き上げた落ち葉が、秋の光を浴びて黄金の回廊を形作り、川面を駆け抜ければ、弧を描く水飛沫で銀の帯を作った。風圧が五郎を抱きしめ、鼻先は炎に近い熱を帯びるが、身体はそれを歓喜として受け止めた。
速度は数字を超え、感覚だけが残った。耳の奥に刷り込まれるのは鼓動ではなく、行路に触れたすべての匂いの断片だ。一本の匂いが線になり、足がその線を踏むたびに過去の誰かの息遣いが追随してきた。
「えっさ、ほいっさ、まだまだ上げるぜ。限界? へへ、そんなもん俺が決めるんじゃねえ!」
峠へ向かう一直線は、海のような遠さを一息で削ぎ落とす刃となる。爆音が山を揺らし、空気は剥がれ落ち、鼻腔に流れ込む匂いの筋は光の帯のように震えた。
前方に羊の群れを見つけると、五郎は一瞬でラインを捻じ曲げ、子羊の背をかすめてほとんど見えぬまま加速する。羊たちは風が切り裂いたように怯え、あとにはただ草の匂いだけが戻った。
ドッティニの切り通しを抜けた瞬間、五郎の速度は通常へと滑らかに戻る。体内に残る余韻は、火を灯したまま消え残る薪のようだ。方々に広がる小次郎の匂いを辿り、最も濃い線が指す丘の上の一軒家を見つけると、五郎は静かに脚を止め、犬らしい声で呼んだ。
◇ ◇ ◇
「ワンワンワン」
“誰かいねぇか。手紙の配達だぜ”
五郎は診療所らしき建物の前で吠える。心の声は日本語だが、出てくるのは犬の鳴き声だった。何度か吠えると扉が開いた。
「誰かと思えば犬か。何か用か?」
出てきたのはプエラだった。しゃがんで同じ目線になる。
“ワオ、こりゃあ見惚れる美人だぜ。エルフっ子はやっぱり美人が多い。匂いも森みてぇに清々しい香りだな”
尻尾は勝手にブンブン回る。プエラの美しい手が伸び、撫でてもらおうと頭を差し出した。
「キャハハッ、お前、頭いいな!」
“やっぱり、やろうの手とは訳が違ぇ。美女の手に撫でられるのが一番だぜ”
「プエラ、誰か来たの?」
「ああ、ウェリス、こっち来てみ! ちっちゃい犬がいるぞ。この辺じゃ見かけないよな」
ウェリスが顔を見せる。
「あら、本当。可愛いわね」
“いやいや、『可愛い』って言葉はあんたのためにあるってもんだ。……しかし小次郎、こんな美女に囲まれてやがったとは。羨ましい野郎だぜ”
美女二人に撫でられて、五郎は天国のような気分だった。
「誰だい、騒がしいね」
今度はしわがれ声のエスタが顔を見せた。その顔を見た五郎は一気にテンションが下がる。
「なんだい、この犬っころは。ババアの顔見たら、とたんに尻尾を丸めやがって」
エスタは直ぐに引っ込み、場が静まる。その静寂に耐えられなくなって噴き出したのはプエラだった。再び五郎を撫でながら話す。
「ぷっ……お前、現金なヤツだな! でもさ、エスタにも尻尾は振っとけよ。あの人、この村じゃ一番の実力者だからな」
「もう、プエラったら。そんなこと言ったらおばあちゃん怒るわよ」
「いやいや、村長いない今さ、実質エスタが仕切ってんだろ?」
「そうね……。どこに行ったのかしら」
美女二人の話を聞きながら五郎は、自分の使命を思い出した。
“ハッ。いけねぇ、忘れるとこだった。これを取ってくれ。小次郎からの手紙が入ってらぁ!”
五郎は首に付けた小さな筒を示すようにころりと仰向けになった。プエラとウェリスはその仕草を見て思わず笑顔になり、優しく腹をさすった。
「わっ、可愛いっ!」
「まぁ……本当に人懐こいのね」
二人は五郎の腹に手を伸ばし、やさしく撫でる。五郎は気持ちよさそうに目を細め、溶けてしまいそうな表情になった。喉の奥で小さく鼻を鳴らし、このまま眠ってしまいそうになるほどの心地よさに身を委ねる。
“ハッ。違ぇ違ぇ、あっしは仕事中だ”
五郎は快楽を断ち切り、ゆっくりと起き上がって首の筒を前足で指し示した。
「ん? これ取ればいいのか?」
「ワン」
プエラが筒を外し、中の手紙を取り出す。ウェリスが覗き込む。
―――
前略
みんなへ
昨日、州都に着いた。今日の午後にはパスコ先生の魔導書を渡し、すぐ戻るつもりだ。少し落ち着いたので、手紙を書くことにした。
プエラへ。ウェリスの看病を引き受けてくれて、本当に助かっている。疲れているはずなのに明るく動いてくれて、心強いよ。後で必ず礼をさせてもらう。少しは休むことも忘れないでほしい。
ウェリスへ。私は護衛を引き受けたのに、逆に恐ろしい目に遭わせ、しかも大怪我まで負わせてしまった。守るはずの私が、君を危険にさらしたことを思うと胸が詰まる。本当にすまない。どうか一日も早く回復してほしい。
エスタ殿へ。大切なお孫さんを守り切れなかったこと、どれだけ詫びても足りない思いです。約束を果たせず、申し訳ありません。必ず償う機会を得て、もう二度と同じことは繰り返さないと心に誓っています。
なお、この犬は五郎という。これも日ノ本から流れてきたらしい。とても賢く、人の言葉を理解できる。手紙を持たせれば、私のところに届くはずだ。
みんなのおかげで気持ちが楽になっている。言葉にすると少しぎこちないけれど、感謝している。帰ったら、ちゃんと伝えたい。
小次郎
早々
―――
「相変わらず、律儀だなあ」
「小次郎さんに心配かけちゃったわね。大丈夫だって教えてあげないと」
こうして二人は、小次郎宛の手紙を書き始めた。
―――
前略
小次郎さんへ
ウェリスです。怪我はもう治ったので、心配しないでください。今は手紙を書くこともできるようになりました。小次郎さんに助けてもらったおかげで、私は元気です。本当にありがとう。責めることなんて、全く考えていません。
※こう見えても、私も治癒師の端くれなので自分の体の回復には自信があります。
パスコ先生の本を渡したら、州都を楽しんできてください。この前は魔犬のことでバタバタして、州都の案内もあまりできませんでしたが、気にせず楽しんでほしいです。それから申し訳ないですが、冒険者に犠牲者が出た件についてステラおばさまへのお悔やみをお伝えください。よろしくお願いします。
プエラから、お礼は、金平糖で手を打つようにとのことです。本当は蜂蜜入りのパン菓子が欲しそうでしたが。
おばあちゃんには、つまらないことで責任を感じるなと言われました。州都の見物も楽しんでください。でも冬になるとドッティニの切り通しを通るのが大変なので、それまでには帰ってきてください。
ウェリス
早々
―――
ウェリスからの紙片を受け取ったプエラは、五郎の首の筒に手紙を入れた。
“へっ、しょうがねぇな。あの堅物侍の世話ァ、この五郎が焼いてやるか。桃太郎にも犬ァ付きモンだ。丁度良いじゃねぇか!”
「五郎、頼んだぜ!」
「ワン」
一声あげて、五郎は駆け出した。州都へ向かう五郎の背中を見送り、二人は並んで立っていた。
「……でも、ちょっと変よね。小次郎さんの手紙には州都に昨日着いたって書いてあるのよ。小次郎さんがアロン村を出発したのは五日前でしょう? 普通なら四日かかるはずよ。だから、五郎ったら半日もかからずに来たことになるわ」
プエラは首をかしげ、しばらく考えた後、ちょっと惚けたように笑った。
「えーっと……日ノ本の犬って、もしかして羽でも生えてんじゃねぇ?」




