旧九曜財閥
砂岡から復讐の衛星放送事業を受けることになったが、石山が一から事業を組み立てる訳ではない。当時、総合商社九曜物産が手掛けようとした衛星事業に便乗してのことである。
九曜物産を有する九曜グループは、旧九曜財閥を源流としている。戦後GHQによる財閥解体によって四散した企業群を社長の親睦会という形で再結集したものである。グループの事業範囲は銀行・商社・不動産・重工・電機など多岐に渡り、おおよそ扱っていない業種はないといったものだった。
そんな九曜グループが新たに参入しようとしていたのが宇宙事業であった。1965(昭和40)年4月に世界最初の商用静止通信衛星インテルサットのサービスが開始されて以来、インマルサットなどの民間衛星が次々と打ち上げられていった。
こうして宇宙の商業利用が進む中で九曜グループも遅れてはなるまいと宇宙事業に参入することになる。九曜グループにはロケットを製造する九曜重工、衛星を製造する九曜電機がある。それらを成長させるというが目的であった。そこで九曜グループ各社が持ち寄って出資し、九曜物産を幹事とした宇宙関連企業「株式会社日本衛星通信」(以下:日本衛星)が創設されることになった。
ここに砂岡が一丁噛みする。砂岡の関連企業も一部出資し、同時に衛星放送の番組スポンサーになることになった。砂岡と九曜グループは利害が一致していた。どっちも左翼勢力を抑え込みたいという思惑を持っていたからである。
九曜グループである九曜重工や九曜電機は原子力関連事業や防衛関連事業を営んでいる。まさしく左翼の敵であり、左翼の妨害やテロに遭い続けた。左翼による反原発や反戦活動で九曜グループの事業拡大を妨害し続けた。そして九曜グループを震撼させる事件が起きる。それが「九曜重工爆破事件」である。
1974(昭和49)年8月30日、極左テロ集団「東亜反日武装旅団」が九曜重工本社ビルに時限爆弾を仕掛けて爆破した。被害は死者8人重軽傷者多数になった「九曜重工爆破事件」である。この事件は九曜重工だけでなくグループ全般に左翼に対して、深刻な恐怖心と激烈な敵愾心を植え付けた。
こうした背景を持つ九曜グループと左翼に私怨と公憤を持っている砂岡が一致協力するのは、自然な流れであった。砂岡は運輸大臣として気象衛星に関わったことを契機に思い浮かんだ衛星を使った復讐劇を九曜重工に持ち掛けた。九曜重工とは原子力や防衛関係で以前より付き合っている。
そうすると砂岡が思っていたよりも、九曜重工は乗り気となった。何より九曜重工は極左テロの被害者であるため、左翼に対する恐怖心と敵愾心は砂岡よりも激しいものがあり、砂岡もたじろぐほどであった。そこから九曜物産の宇宙事業に結ぶことになった。
役割分担としては衛星の打ち上げや管制といったハード面は日本衛星が担当し、番組制作などのソフト面は砂岡の関連企業が担当する話となった。石山はその関連企業の社長となって砂岡と九曜の復讐の爪牙となる。
尤も、今すぐに出来る話でもなく、現状では石山は衛星事業の会社を小さく準備するところから始まる。そもそも大阪湾国際空港を放置する訳にもいかなかった。
幾ら空港会社社長三枝でもこなせる段階になったとはいえ、まだ裏工作なり裏交渉は必要が必要になった。そこで石山は大阪湾国際空港建設の仕事をする傍らで衛星放送事業の準備をすることになった。
1984年4月、大阪湾国際空港の本社事務所が入居している宝急梅田ターミナルビル内に新たに部屋を借りて、そこを衛星放送事業の準備拠点とした。
東京に準備拠点を置かなかったのは、当時石山が大阪湾国際空港に携わっているため、その拠点から離れないようにするため以外の理由もあった。それは東京で準備をすると何か目立ち、在京キー局や在京キー局と癒着している郵政省からの妨害に遭う可能性があった。何より、地上波テレビ局から見れば新たな競合者の誕生である。妨害は十分に考えられた。
それに対して、大阪であれば彼らからの目は届きにくく、それでいて在阪テレビ局が準キー局として活動しており、それに伴い東京ほどではないにしても番組制作会社が活動していた。また、在京キー局に対して屈折した対抗心も持っており、協力が得やすい土壌があった。
こうして、石山は大阪湾国際空港の建設という難事業に衛星放送という難事業を抱え込むことになった。




