裁定
三枝の話は実に官僚的であった。極力争いを避けて、妥協で相手が大人しくしてくれれば、それでいいという感覚である。まさしく事なかれ主義の官僚の姿である。
それに対して、石山は労農党の砂ビジネスを危険視していた。砂の供給源が北朝鮮にあることからしても危険であるし、何よりも労農党に金を渡すのが気に食わなかった。
先の調査船妨害事件(通称:泉州沖海戦)で漁船団に紛れて火炎瓶を巡視船に投げつけた者がまだ逮捕されていなかった。石山の憶測では十中八九労農党の過激派だと睨んでおり、それを匿っていると思われる労農党を信用する気などなかった。
だが大阪湾国際空港株式会社の社長は三枝にあり、決定権は三枝が有していた。そこで石山は三枝に一つ提案をした。それは運輸大臣砂岡に判断を仰ぐことである。
「一度、砂岡大臣に相談した方がいいでしょう。この案件は慎重に扱わなければならない。何かあったとき、社長に不利益があるかもしれない。ここは砂岡大臣に任せた方が良いかと」
三枝は暫く考え、砂岡と話をすることに承諾した。
結論から記すと、砂岡は三枝の提案を承諾し労農党を通して北朝鮮の砂が一部ではあるが、空港建設で使われることになった。労農党に金を渡すことで労農党を存続させようとした。
これは自政会が労農党の存在によって、辛うじて結束していたからである。共通の敵がいるから結束という論理である。
当時、自政会の内部対立が先鋭化しつつあった。都市と地方、よりあからさまなに表現すれば「都会と田舎の対立」であった。
戦後、一貫して投資効率の高い都市部を優先してインフラ整備が行われていた。これは高度経済成長を実現させ税収の増収と安定化を図るためであった。そして地方には「無理のない範囲」の分配が行われ、地方にも経済成長の恩恵に与れるようにした。
この政策自体は成功を納め、国土が焦土とかし荒廃した日本を短期間に復興させ、経済大国にまで引き上げた。しかし相対的に都市と地方の格差は顕著なものになった。
都市では道路・水道・電力ガス・鉄道といったハードのインフラが充実しているだけでなく、医療・教育といったソフトのインフラも充実していた。それに対して地方は、戦前よりインフラが改善されてはいたものの、都市と比べて著しく見劣りするものであった。
そのインフラの貧弱さから地方では産業が発達せず、所得格差が都市と地方で最大2倍に達していた。こうした不満を解消するため、1980年代に入り地方のインフラ整備が以前より行われるようになった。
しかし、それは地方からすれば遅々としたもので苛立ちを持つものだった。東海道新幹線が開業してから、19年の歳月でようやく東北新幹線が開業したことを思えば、そう思うのは当然であった。
地方に設置させる施設は原発や自衛隊及び在日米軍基地といったリスクが高い施設が主で彼らにすれば、都会からリスクを押し付けられていると感じていた。
こういった不満は自政会の地方選出議員にも溜まっており、時折党内で怒りを爆発させていた。彼らにすれば、経済的に恵まれている都会からより税金を取り立てて、それを田舎に回せということであった。
しかし増税をすれば経済停滞を招き、結果税収が減収する。よって、歴代の党主流派は増税に頼らない「無理のない」による分配政策を通そうとした。その代わり、地方選出議員には党から手厚い資金提供を行うことで離反させないようにした。
自政会は結党以来「都会の企業献金で田舎議員に渡して票を稼ぐ」という形で結束していた。しかし金だけでは結束をするのは難しいものがある。結束するためには共通の敵が必要であったのである。その役割が労農党であった。
これまでは労農党やそのシンパが過激な革命を起こそうとすることで、結束しなければ対抗できないという動機付けを自政会にもたらした。ところがその労農党が弱体しつつあった。
経済成長によって豊かになる人が増えれば増えるほど、共産主義に共感する者は減っていった。更に昭和50年代になると共産主義国の経済不調が国民に知れ渡るようになり、共産主義は駄目だという認識が広がっていた。(大体、学生運動で関東国際空港の反対運動していた世代がその空港で海外旅行するようになったことが象徴的である。)
それに伴い労農党の党勢は衰え始め、このままでは消滅または弱小政党になってしまうのは時間の問題であった。この労農党の衰えが自政会に分裂の危機をもたらす。
労農党が衰えるに反比例して、自営会内部で地方出身議員たちの不満の声が大きくなっていった。これまでは労農党に対抗するという大義名分で、不満を抑えていたがそれが効かなくなりつつあった。
そこで自政会の主流派は自党の結束力を維持するため、労農党を支援する検討を始める。これは選挙対策の側面もあった。労農党が健在であれば、労農党に代わって自政会に対抗できる政党の設立を阻止できるからである。
つまり自政会は自党の結束と自党に対抗する新政党誕生の阻止するため、労農党にはある程度の力を持ってもらわなくてはならなかった。皮肉な話であるが労農党こそが自政会の最大支持団体と化していたのである。
そういった事情から労農党の砂ビジネスを通して金をやり、労農党を生かさず殺さずに維持させることになった。




