因縁
1983(昭和58)年11月17日、九十九里浜沖上空。石山は伊丹発の飛行機に乗っていた。窓を望むと、米粒程度の大きさの飛行機が同時に着陸と離陸を繰り返す関東国際空港の姿が目に入った。
「巨大だな」
石山はそう思った。緑に覆われた田園地帯にコンクリート要塞が鎮座している様子は圧巻であり異様であった。自分がして来た仕事の大きさを思い知らされた。
石山が深く関わり続けた関東国際空港であったが6本の滑走路を有してからは、全くといっていいほど関わっていなかった。こうして上空から空港全体を望むのは、これが初めてである。
石山は翌18日に行われる常磐新幹線の全線開業式典に賓客として出席をすることになった。これまでに常磐新幹線は東京駅と空港間で部分的に運用されていたが、残り区間である関東国際空港駅から磐城駅までが完成したため、全線完成式典が執り行われることになった。
これは運輸大臣砂岡直々の招待であった。砂岡から、
「この新幹線の完成で空港と新幹線の完成になる。君の貢献があればこそだ。その完成式に是非来てもらいたい」
と言われた。ここまで言われると断ることなど出来ず、気乗りはしないが渋々出席することとなった。
気乗りしなかった理由は大阪湾国際空港建設準備で忙しかったというのもあるが、何より嘗ての古巣である京葉電鉄の内紛劇に巻き込まれたことにあったからであった。結果、京葉電鉄グループに居られなくなり、今に至っている。
京葉電鉄の現社長である里見に対して、恨みがましい感情はないが顔は合わしたくない程度の嫌悪感はあった。ただ、今回の式典において里見は出席しないということであった。それだけでも嫌悪感に苛まれず済むと安堵した。
石山は式典への出席だけではなく、ついでに関東国際空港の視察も行うことにした。当時、世界最先端であった当空港を知ることは有意義であると考えた。当空港の特徴と運用を通じて明かになった問題点を把握して、大阪湾国際空港建設に生かそうとした。
石山が設計をする訳でもないが全く知らなければ、下から上がってくる案件のチェックができなくなる。多少なりともチェックできるようにして、下に緊張感を与えなければならなかった。そのために最新の国際空港の事情を知ろうとした。
飛行機から降りて搭乗橋を渡り、空港ロビーに着くと関東国際空港公団総裁春田昇が出迎えた。このとき石山は驚いた。空港公団総裁自らが出迎えに来たからである。関東国際空港公団総裁は運輸省の天下り職で、運輸事務次官と海上保安庁長官の経験者が交代で就任するポストである。
石山は公団の部長クラスが出迎えると思っていたところに公団トップが出迎えたことに驚いた。そして因縁めいたものを感じ驚きながら納得もした。この春田こそが当空港計画を当初案から今日の巨大化に変えた張本人だったからである。
春田は運輸省航空局空港計画課長だったときに、当初案(滑走路5本、面積約2.300ヘクタール)から巨大化させて現在の形(滑走路6本、面積6,200ヘクタール)にした男である。その後、その功績が認められ昇進を繰り返し、航空局長、運輸事務次官となる。そして関東国際空港に天下った。
「いやあ、お久しぶりですな。石山さん、お元気にされていましたか」
と屈託なく声を掛けて来た。そして、春田の後ろには公団幹部が金魚の糞で並んでいた。
「これはお久しぶりです。春田総裁。こちらは大阪で四苦八苦しておりまして大変ですわ。それで、この空港で勉強しようと思いまして、明日の式典を兼ねて来ました」
と当たり障りのない挨拶をして、貴賓室に案内された。
貴賓室で石山は和やかな雰囲気で春田と懇談をした。関東国際空港での成果や課題、大阪湾国際空港建設についての懇談をした。
「石山さんのおかげで、日本は世界で冠たる空港を手に入れた。この空港は日本の玄関だけない。アジアの玄関でもある。本当に見事だ。感謝しています」
春田は大袈裟に石山に感謝をした。石山は愛想笑いをしながら礼を返した。
終始和やかな雰囲気であったが石山の心中は穏やかではなかった。この男が原因で空港建設が複雑化していった。結果、反対運動を誘発し多数の死傷者を出す事態となった。当初案通りであれば、反対運動が起きずに多数の死傷者も出なかったであろう。
また先の感謝の弁にしても、石山に感謝する形を取りながら自身の成果を誇示する顕示欲にも辟易させられた。
ただ、この男によって日本が世界で冠たる空港を持つようになったことは事実であり、それは国益に適っていた。それに石山が大量に土地を買収したことが契機で計画変更となった訳であった。
よって責任として、春田のご高説を笑顔で拝聴しなければならなかった。
結局、石山は里見に会わずに済むと安堵していたが、それは甘かったと思い知らされた。




