教育
石山の活躍によって、大量の原子力発電所の建設に目途が付いた。しかし、これはこれで新たな問題を招いた。それは原子力関係の技術者不足である。
1981(昭和56)年時点において、日本には原発が9ヶ所で原子炉が19基であった。それが更に追加で22ヶ所の原発が建設され、62基の原子炉が設置されることになっていた。合わせて、31ヶ所の原発に81基の原子炉が日本に設置されることになる。
明らかに技術者が不足していた。製造は勿論のこと運用においても多数の技術者が必要されていた。そこで砂岡は原子力学科の学生向けに奨学金を付与する財団法人を設立する。それが「原子力育英会」である。
奨学金を付与することで原子力技術を学ぶ者を増やし、技術者を確保しようとした。財源は原子力に関連する企業(電力会社や原発の製造メーカーなど)からの出資である。
奨学金の仕組みは自治医科大学や防衛大学校と類似している。奨学金を貸与された学生は卒業後に指定された企業に就職して、9年間勤務すれば免除されるというものである。
指定先については、ある程度学生の希望が反映された。各企業の採用枠と学生の希望と成績が考慮され、指定先が決まる仕組みである。
これは単に技術者の確保が目的でなく、もう一つの目的があった。それは原子力発電所のイメージ向上を図るためであった。
広島・長崎への原子爆弾投下で発生した国民の核アレルギーは原子力推進の障害となっていた。更にスリーマイル島原子力事故がそれに拍車を掛けた。
この状況を打開するため、各電力会社は原発のイメージアップするためテレビCMや新聞広告を展開した。原発の必要性や安全性を俳優・女優・評論家などを用いて広く宣伝した。
これはCMを通じて広く国民に宣伝するだけでなく、広告料でテレビ局と新聞社を買収していく目的も兼ねてのことである。いわばCCCが行っていたことを踏襲した。
この奨学金も同様で単に技術者を養成するだけなく、貧困層でも大学に進学ができる道を提供することで原発のイメージアップを狙うものであった。それは同時に貧困層へ浸透して左傾化及び反原発派を形成しようとしていた日本労農党への対抗策でもあった。
日本労農党は支持母体である日本教員会(以下:日教会)という労働組合を通して、各小中高学校で反戦反原発運動を展開していた。この刷り込みの影響は極めて強く、少なからずの者が反戦反原発に染まっていた。当時の世論では自衛隊や原発に対して、30%が反対の意思を持つに至っていた。
これに対抗するために砂岡は札束で対抗しようとした。つまり、この奨学金は単に技術者確保のためでなく、思想の戦いでもあった。
砂岡は奨学金だけでなく、私立の小中高設立を容易にするように圧力を掛けた。公立学校が事実上の日教会の植民地化していた。それに対抗するため、より一層の私立の小中高を設立させようとした。そのため、より踏み込んで企業が利潤追求で学校市場に参入できるようにするものであった。
文部省はこれ以上の私立の小中高が増えることを嫌って、砂岡の要求を当初は拒んだ。このとき文部省はコントロールがしにくい私立校が増えたことに後悔をしていた。
高度経済成長期に都市部に人口が集中して、学校が足りずに致し方なく私立校の設立を容易にした結果、私立校が多く設立され文部省の教育方針から外れるようになるようになった。文部省にすれば、それが更に拡大することを恐れた。
また日教会の利益にも反していた。日教会の場合、公立校であれば好き勝手な活動ができるが私立校であれば、オーナーの意向に沿わないと直ちに解雇される。そのため活動に制限が掛かる。何より公立校という安定職という既得権益の維持拡大ができなくなる。
そして意外なことだが文部省は日教会と談合することで省益を得ていた。日教会の反戦反原発活動を大目に見れば、日教会は文部省の文部行政に積極的に協力した。談合で文部官僚は楽をすることが出来た。
また反戦活動を通じて自衛隊に対する嫌悪感が広がることを期待していた。そうすれば、予算の取り合いで文部省が優位に立てるからである。
また共産主義思想に染まった文部官僚が多くおり、日教会に対してシンパシーを持っていた。
そういった事情で砂岡からの要求を拒否する。そもそも、教育に関係ない運輸大臣の砂岡からの横槍に激烈な不快感を持った。しかし文部省は極めて不愉快ながら、これを受け入れる。
それは砂岡が運輸大臣であると同時に参議院を完全に掌握していたからである。文部省が法令を出すたびに砂岡は参議院に働きかけて、会期末数日前まで趣旨説明や質疑を要求して審議ができないようにした。通称「つるし」である。そして結局、審議不足という形で廃案に追い込んでいった。
これによって文部省は機能不全に陥り、致し方なく砂岡の要求を飲むに至った。




