神戸シートピア博覧会
1981(昭和56)年3月20日、神戸シートピア博覧会開会式。
戦後、高度経済成長によって神戸港の取扱能力が限界を超えてしまい支障を来していた。更なる拡大に対応するため、神戸沖に埋立地を造成して港を拡大させることとした。併せて増大する人口に対応するために新都市建設も行われることになった。
それが完成し、人工島に建設された港湾都市のお披露目として、「神戸シートピア博覧会」が開催された。シートピアとは英語の「sea(海)」と「utopia(理想郷)」を足し合わせて造った造語である。
開会式には総理大臣を筆頭に全閣僚が顔を並べ、各国の駐在大使も列席した。特筆すべきは、関東国際空港と異なり皇太子と皇太子妃が出席されたことであった。関東国際空港が用地買収時に悲惨な暴動に発展し、その後も各地でテロが続出する中で皇室の方々の出席は安全上できなかったことを思うと隔世の感があった。
石山も砂岡の同行者ということで末席に座り開会式を観覧していた。石山はシートピア建設に関係していないが砂岡の要請で出席となった。それは式典後の会合で神戸市の誘致活動を石山に把握させるためである。
神戸都心の三宮と人工島シートピアとの間は世界初の自動無人運転方式の新交通システム「ピアライナー」が結んでいた。運転席がないため、前方が広く望むことができる。まさしく未来の乗り物といっていいほどであった。
会場には国内外の政府や企業のパビリオンが立ち並び、博覧会の最大の呼び物であるパンダが展示されていた。1979(昭和54)年日中国交樹立後に友好親善として博覧会に送られたものである。後に1982(昭和57)年に東京上野動物園で常設展示となる先駆けだった。
開会式終了後に砂岡と石山は神戸市の担当者に連れられて、神戸シートピア博覧会会場に接するホテル「神戸シートピアホテル」の小会議室に案内された。
「本来でありましたら、市長宮坂が先に待って出迎えなければなりませんが、今、皇太子殿下ご夫妻に会場を案内しております。暫しお待ちのほどお願い申し上げます。失礼でありますことを誠に申し訳ございません」
と頭を下げ去っていった。その後、2人は無言に徹した。盗聴器が仕掛けられている可能性があったからである。
暫くすると2人の人物が入室して来た。一人は神戸市長宮坂淳そしてもう一人が建設大臣乾浩太朗だった。市長の宮坂は細身の体で如何にも役所上りの風貌で、狐のようであった。それに対して乾は丸顔に腹が出ており、信楽焼の狸そのものであった。まさしく狐と狸のお出ましといった様子である。
「お待たせしました」
と愛想笑いをしながら、挨拶をした。こうして役者が揃い、神戸に新空港を誘致する話となった。
1971(昭和46)年9月に運輸省航空局が「近畿圏国際空港計画に関する調査概要」が発表された。神戸案は和田岬沖合5kmに滑走路6本を有する巨大空港を建設するものである。東西方向に4,000mの滑走路を4本、それを横切る形で北東・南西方向に3,200mの横風用滑走路設置するものであった。
この関東国際空港に準じる規模の空港建設に神戸の政財界は、色めき立った。宮坂は空港建設を市の発展に繋がるとして誘致を水面下で行っていた。しかし、運輸省の発表に神戸市民が反発を示す。海上空港とはいえ、神戸上空での飛行による騒音の懸念をされたからであった。こうして、市民の中で反対の世論が形成される。
宮坂は市長選に当選するため、なりふり構わずに反空港勢力におもねることした。それで選挙戦で推進派から反対派に転じる。
この変節ぶりは功を奏し、宮坂は再選を果たした。その後、ほとぼりが冷めるのを待って、再び推進派に戻ろうとしていた。この時点で宮坂は空港誘致を公にはしていなかったが、こうして水面下で蠢き出していた。
「確か市長は空港反対で当選されたはず、そんな簡単にひっくり返していいものですか」
と、砂岡は嫌味を入れて質問をした。それに宮坂が何事もなく答える。
「それは方便です。今は反対派が強いですが、これもいずれは落ち着いて空港容認になります。みんな豊かになれば、便利さを求めるものですし、何より海の上だから騒音もない。冷静になれば気付くものです」
これに対して、砂岡は
「市長、今の段階ではまだ決まっておりません。とにかく選定委員会に任せるしかないです。何分前代未聞の埋め立て工事ですから、技術的に可能かどうかも分かりませんからね」
砂岡はそう言って、はぐらかした。そこにすかさず声を入れたのが乾である。
「そう前代未聞の埋め立て工事となれば、当然建設省も調査研究をしなければならない。うちからも委員を送るのは、当然だろう。砂岡大臣、よろしいですかな」
「ああ、もちろん。我々だけでは難しいこともあるでしょうから」
石山はこれで全てを察した。砂岡が自分の利権がある伊丹空港を守るため、泉州沖に新空港を建設する方向で動いていることを察知したのだろう。そして宮坂と懇意がある建設大臣乾を通して、牽制を掛けて来たと。
とりあえず、砂岡は建設省の息が掛かっている学者を受け入れることになった。当初の予定では、検討委員会は砂岡の息が掛かった学者で塗り固めて、泉州沖にするように誘導することを目論んでいた。それに待ったが掛かった訳である。当然、砂岡にすれば不愉快な話であるが、表立って断ることができないため、渋々受け入れた。
会合は表面上穏やかに終え、ホテルから去ることとなった。その後、砂岡と石山は宝急が用意したハイヤーで伊丹空港の宝急ホテルに向かった。砂岡はホテルで一泊した後、飛行機で東京に帰ることになっていた。
宿泊するホテルの部屋で、ようやく砂岡が口を開いた。
「ああいう男は気に食わん。言うことをコロコロと変える変節漢で、しかも狸まで連れて来て無言の圧力まで掛けてくる。益々以て、神戸に空港を造らせない。でも牽制には使えるな。鶴田先生に対する牽制くらいには使えるやろ」
砂岡は鶴田に発破と牽制を掛けるための対抗馬として神戸を使うこととした。




