昭和五十五年
1980(昭和55)年9月15日、関東国際空港E・F滑走路の完成式典会場。
「この度、関東国際空港は2本の滑走路が完成し、計画通りに6本となりました。更に来月には中華人民共和国の定期便が就航することになっております。このように空港はまさしくアジアの玄関となり、日本はもちろんのことアジアの発展に大きく寄与することになるでしょう」
前月の8月に内閣改造で運輸大臣となった砂岡が高らかに演説をした。
式典の出席者は当空港と関係が深い者たちが集められた。運輸事務次官を始めとした運輸省の最高幹部、千葉県知事・下総市市長など自治体のトップや地方議員、そして京葉電鉄や空港と取引している企業のトップなどが顔を並べていた。また日鉄の総裁も、将来において新幹線を当空港に建設するということで出席した。
オイルショックによる総需要抑制政策が全国で行われる中でも、関東国際空港の建設は国家の最優先事業として続行されていた。そしてE・F滑走路が完成し、4,000m滑走路6本(内、横風用2本)が運用開始となった。これによって横風時でも2機同時着陸が可能になり、安定的な運用が出来るようになった。
これによって年間の発着回数枠が50万回となる。これによって、2機同時着陸をしながらの2機同時離陸が横風時にも安定的にできるようになる。2機同時着陸と2機同時離陸が同時に出来る空港は世界的にも限られる。
この特異な能力は日本の航空会社だけなく、欧米の航空会社で重宝した。そして欧米の航空会社は、当空港をアジア地域におけるハブ空港とするようになっていった。
通常ハブ空港は同じ時間帯に集中的に航空機を集めて、一斉に散らす運用が行われる。それは各地から乗客と航空機を同時間帯に集めた方が乗客と航空機の待ち時間を最小にして、効率よく乗り換えることが出来るからである。
当空港はピーク時で集中と発散が標準的なハブ空港よりもほぼ2倍の能力で捌ける。こうして欧米の航空会社の多くが経由拠点としてだけでなく、整備拠点も置くようになる。
一悶着があった常磐新幹線はまだ空港に達していなかった。第一期工事が東京駅―千葉学術研究都市駅間で行われ、空港への延伸は第一期完了後であり、まだ先だった。
駅の構造は島式ホームが4面8線を計画しており、空港アクセス線の駅にしては規模が大きい。これは将来、東北・上越新幹線が乗り入れることを想定し、更に常磐新幹線で当駅発着の列車を想定していたからであった。尚、第三期では原発新幹線として空港駅から水戸・磐城方面への建設されることになっている。
更に中華人民共和国の国営航空会社「中国民航」が就航することになった。これは前年の日中国交樹立を受けて、両国間で航空路線が開設されてのことであった。これによって、北朝鮮を除くアジア諸国との航路が開設されるようになる。
まだ、この時点ではアラスカのアンカレッジ空港経由ではあるものの、当空港が名実ともにアジアの玄関となる。(北極回りの旅客路線でアンカレッジ空港経由が廃止されるのは、1991(平成3)年になる)
この日の式典は無事に終えるがそこに石山の姿はなかった。これは京葉電鉄内の内紛劇で居づらくなって砂岡の庇護に入ったいきさつから、古巣の京葉電鉄の面々と顔を合わすことが憚れたためであった。そして石山は砂岡の爪牙となって、再び工作活動に勤しんでいた。
それが大阪湾国際空港である。




