糾弾
基地建設については、些かではあるが石山にとって追い風になる出来事が起きた。1979(昭和54)年12月にソ連がアフガニスタンに軍事侵攻を行った。所謂、「アフガニスタン侵攻」である。
1978年にアフガニスタンで親ソ勢力の共産主義政党「アフガニスタン人民民主党」が成立した。しかし、これに対して武装勢力が蜂起し、ほぼ全土が武装勢力の支配下に落ちる。そこで人民民主党がソ連に軍事介入を要請した。それを受け、ソ連は1979年12月24日に軍事介入した。
ソ連とすればアフガニスタンの完全掌握は冷戦で勝利するために必要であった。ソ連はアフガニスタンとパキスタンを共産化させることでインド洋への進出を目指したからである。
インド洋への進出目的は西側諸国をソ連に恭順させるためであった。西側諸国はアラブの石油に依存しており、その輸送ルートに当たるインド洋アラビア海を掌握すれば、西側諸国の生殺与奪の権が得られたからである。
この軍事介入で日本では「北方脅威論」が沸き上がった。ソ連の軍事的脅威に対して国内が恐怖に満ちた。アフガニスタンの次は日本だという認識が広がったのである。それに対抗するため、予算増額や自衛隊基地建設について国民の理解が得られるようになる。
こうした内外情勢下、労農党で労農党大会が執り行われた。大会は党の方針を決定する討議の場で、ここで採択されたものが党の運営方針となる重要なものであった。ただ実際は労農党の最高幹部によって、粗方決まっており大会は討議体裁を取った党の発表会であった。
例年であれば、そんな発表会で幕を引くところが、1984(昭和54)年の党大会は大きく違った。この大会では労農党のトップである新井書記長が吊るし上げに遭った。結果、労農党のトップである書記長新井雄作が辞任となり、さらに自殺にする事態となった。
新井書記長がソ連から資金提供を直接受けており、党に報告せず私的流用していたという内容の怪文書が党内で流布されたことが議題として上がった。大会の議長にして当人である新井は、この話を無視して議事を進行させようとしたが数十人の運動員を連れた労農党北海道支部長唐津貴善が壇上に上がり、糾弾を始めた。
新井と唐津は犬猿の仲で知られ、路線対立から新井は唐津を北海道支部に遠ざけていた。新井の本音としては唐津を除名処分にして追放したいが、それをすると唐津に追随する者が多数出て、唐津による新党が結成される恐れがあった。そのため、北海道支部に遠ざけ飼い殺しにしようとした。
そんな唐津が出処不明の膨大な量の調査資料を持参して、その内容を屈強な運動員に守られる形で発表した。それは新井体制における新井及びその腰巾着の悪行の数々で、中には新井が愛人に党の資金を与えていると公表した。そして唐津は新井を追求した。
新井はそれを全力で否定する。そこで会計担当者が唐津に引き摺られる形で壇上に上げさせられた。そして壇上で新井のソ連から資金提供の私的流用や党の活動資金を横領にしていた事実を告白した。
この騒動で大会は直ちに閉幕となった。その後、新井は党書記長を辞任し、辞任して1ヶ月後謎の自殺をした。また糾弾をした唐津と会計担当者も、謎の自殺を遂げて一連の騒動に幕を閉じた。
尚、新たに書記長に就任したのは穏健派の大久保公雄が書記長に就任した。大久保は、これまでの反政府路線から労働者の権利拡大と貧困学生への学習支援を通じての党勢拡大に舵を切った。その結果、反原発反自衛隊闘争は大幅に軟化した。
更に翌年の1980(昭和55)年にはイラン・イラク戦争が勃発した。これによって、再びオイルショックが起きる不安が生じる。そういった事情もあって、世論が原発容認に傾くようになった。
こうして原発建設及び自衛隊関連施設の建設は、反対運動がありながらも全国に建設ができる目途が立った。そして石山は次の仕事に取り組むこととなる。




