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怨嗟

 日本労農党は身内の極左との内ゲバで一時期弱体化していた。そこで再興するため、活路を地方に求める。地方は都市部と異なり、開発が遅れており不満や怨嗟が溜まっていた。労農党はそれらを取り込んでいこうとしたのである。


 特に東北地方や山陰地方は発展に取り残されていた。昭和50年のカラーテレビの普及率が都市部ではほぼ100%であるのに対して、これらの地方の普及率は20%に達していなかった。

 彼らは都会の発展のために地方が捨てられていると感じていた。地方の開発は常に後回しにされていたからである。それでいて彼らには縁がない旅客機のための関東国際空港建設は最優先に建設される。いくらオイルショックの総需要抑制政策とはいえ、あからさまに地方を軽視した政策に不満が溜まっていた。

 そんな地方に政府は更に追い打ちをかける。農水産物の貿易自由化と農水業への参入自由化である。

 当時、日本の工業製品が大量に輸出されるようになって、貿易黒字を拡大させた。同時にアメリカの対日貿易赤字が拡大していった。アメリカは貿易不均衡是正と称して、日本に対して農水産物の貿易自由化を強く求める。

 日本政府はアメリカとの同盟関係を堅持するとして、農水産物の貿易自由化を受け入れた。それは工業製品の輸出促進とソ連と対峙するためだった。

農水産物の自由化と同時に国内農水業の国際競争力を上げるため、政府は商社や流通などの資本が農業に自由に参入できるようにした。これは大手資本で農水業を大規模化や機械化することで効率を上げ、海外からの農水産物に対抗できるように施策である。


 昭和50年に農水産物の貿易自由化と大手資本の参入自由化がされた。実際のところ、農家への影響は限定的であった。

 当時の為替レートは1ドルが200円前後で、まだ海外産が割高であった。またアメリカがそれほど米を生産しておらず、輸入が限定的であった。

参入自由化も3年程度しか経っておらず、大手も手探りの試験的なもので多勢に影響を与えるほどでもなかった。

 比較的に影響があったのは小麦・柑橘類・肉類であったが、これも結果として影響は限定的であった。元々、小麦は日本での栽培が向いていないということもあって、国内生産が限定的であった。柑橘類・肉類は為替レートが1ドル200円程度であったため、内外価格差はそれほど大きいものでなかった。そして品質という面において、優位に立っていたこともあり廃業が続出する事態になっていなかった。


 しかし、農民から見れば政府の2つの自由化政策は裏切り以外の何物でもなかった。そして売り飛ばされたという認識を持つ。一連の政策は彼らからすれば農村虐めに他ならず、怒りを募らせるものとなった。


 尚、これらの政策を積極的に推し進めていたのが砂岡であった。石山は説明する。

「砂岡先生は『関東国際空港の用地取得で手間が掛かったのは、政治が農家を保護するから、農民が土地を放さない。だから農民が農業を諦めるようにしなければならない』と言っていた。だから保護をなくして農地を手放すように誘導しようとした」


 こうした急進的な政策は地方に怨嗟を生み出し、労農党はその怨嗟の受け皿となった。その成果は出ており、地方議会で獲得議席を増やし復活しつつあった。

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