GNP比2%
1978(昭和53)年5月に内閣改造が行われ、砂岡は科学技術庁長官から防衛庁長官に変わった。これは防衛費増額で基地を増設するために砂岡の剛腕を活用するためである。
当時のGNP(国民総生産)比にして2%相当にまで増額された。警察予備隊や保安隊時代においてはGNP比2%を超えていたが、自衛隊となってから防衛費は伸びていたものの、高度経済成長によって、GNP比では相対的に低下して2%を割り込むようになっていた。これを再び2%にまで上げることとなった。これには幾つかの理由がある。大きくまとめると以下のようになる。
1.ソ連の脅威
1976(昭和51)年9月6日にソ連防空軍所属のミグ25戦闘機が北海道の函館空港に強行着陸した。そして搭乗していたパイロットのヴィクトル・ベレンコ中尉が米国に亡命を求める。所謂、「ベレンコ中尉亡命事件」である。
ベレンコ自身は米国への亡命を果たす形で幕が引かれた。しかし事件が残した影響は極めて大きなものになった。この事件を通して、日本の防空体制が脆弱であることが明らかになったからである。
これは嘗てのアメリカによる大空襲の恐怖がよみがえらせるものであった。その恐怖心から北方脅威論が叫ばれ、慌てて防衛費を増額させる大きな動機となった。
2.日米貿易摩擦
この時期より、日本の貿易黒字が巨額になりつつあった。とりわけ対米貿易においては、巨額なものとなっており貿易不均衡として、アメリカから不満の声が上がっていた。
アメリカからは「安保タダ乗り」と言われるようになり、アメリカの不満をなだめることが求められた。結果、アメリカ製の兵器を積極的に導入することになる。
特にアメリカの産業が得意とする航空兵器に比重が置かれた。陸はヘリ、海は哨戒機、空は戦闘機・早期警戒機・空中給油機である。そのため、地方にそれらが利用する航空基地の増設が求められた。
3.地方経済の活性化
敗戦後から一貫して、大都市圏の開発を重点に国土開発が行われた。これは空襲によって破壊された尽くされた大都市を復興するものであった。そして大都市が再生され、日本の高度経済成長に大きく寄与した。
それに対して地方の開発は遅れていた。そこで開発と所得移転の図るため、地方の公共事業が行われるようになる。しかしオイルショックによる総需要抑制政策によって、地方の公共事業が中断された。
この中断された公共事業を再開に当たり、自衛隊関連事業も含めることとなった。開発の予算規模を大きくすることで、より一層の地方活性化につなげようとした。
自衛隊員増による地方の雇用拡大と消費拡大を図り、一部の航空基地を民間共用として使えるようにして、地方交通の利便性向上を目指した。
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こうして、原子力関連と自衛隊関連の両輪で地方の活性化を目指すようになった。原子力関連と自衛隊関連であれば都市から地方への所得の再配分が行いやすかったからである。
単純に公共事業で都市から地方へのバラマキをすれと、都市部の反感を買うだけでなく、都市が求めるエネルギー源と安全保障の確保が出来なかった。つまり、都市部の納得を得るため、地方はエネルギー源と安全保障を都市部に販売する形態が出来上がる。
砂岡はこの状況を最大限に活用して、自身の利益に結び付けようとしていた。砂岡は関東国際空港建設のときと同じように周囲の土地も購入して、開発が進んで土地の値上がり益を得ることを企てた。
よって、自衛隊の航空基地は民間利用が積極的に行われる。これは先述の通り地元の利便性向上を目的としているが、他に民間利用で土地価格を上げることも目的の一つであった。
石山は砂岡の爪牙となって、全国各地の原発建設と自衛隊の基地建設の裏工作を進め、同時に砂岡のために周囲の土地買収も手掛けるようになった。
そこに立ちはだかったのが、地方での勢力拡大に生き残りの活路を見出した日本労農党だった。そして彼らとの暗闘が繰り広げられる。




