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スト権スト

 1976(昭和51)年、この年は前年と打って変わって逆風が吹き荒れた。


 日鉄の労働組合である日本鉄道労働組合(以下:日鉄労組)が3月26日にスト権ストが決行された。スト権ストとは日鉄を始めとした公共企業体の職員がストライキ権を獲得するためのストライキである。当時、公共企業体は公共企業体等労働関係法によりストライキが禁止されていた。これを奪還するということで、日鉄労組が過去何度にも渡って繰り返された労使紛争である。


 話を複雑化させていたのが、労組の中に左翼勢力が浸透していたことである。そのため単なる労使問題でなく革命闘争が加わっての反政府活動となった。いわば関東国際空港の反対運動に参加した学生運動と同じである。


 この3月26日のスト権ストは、これまでと違い全国規模で決行し、日本の交通や物流などを麻痺させ要求を政府に飲ませるというものであった。背景としては、従前からのストライキ権の要求やマル生運動に代表される生産性向上運動による労働者側の不満が挙げられた。そして今回のストライキはそれだけでなく、新宿駅を始めとした山手線貨物駅の整理があった。

 貨物駅の整理は将来的には人員整理に繋がりかねなかった。(実際にその後の民営化の際に人員整理されている)そのような人員整理に繋がりかねない貨物駅の整理などは日鉄労組にとっては許されない事態であった。

 よって日鉄労組はこれまでのスト権ストの要求以外に山手線貨物駅の存続を訴えて、ストライキを決行するに至った。


 このとき日鉄総裁の藤山は狼狽して、彼らの要求であるスト権ストを条件付きで認める発言を行い収拾させようとした。この姿勢に与党民友党がとりわけ砂岡が強く反発し、徹底的に叩き潰すことを主張した。


 そして結果は日鉄労組の敗北で終わった。敗北した主な理由は私鉄の充実とトラック輸送の充実である。

 オイルショック下で地方の公共事業は凍結に追い込まれたが、都心については優先度が高いとされ私鉄の新線開発や複々線化が進んでいた。それらが日鉄のストライキ分の受け皿となり、ストライキによる通勤の麻痺は最小限度に留まった。

 また関西地域においては、元より「私鉄王国」と言われるくらい、日鉄よりも私鉄の方が強いため日鉄のストライキの被害は関東よりも更に限定的になった。

 物流についても徐々に建設されてきた高速道路網とトラックが威力発揮した。貨物列車も運休分をトラックが代替して補ったからである。

 こうして完全に時代に取り残された形で集結した日鉄労組のストライキは敗北に終わった。これを契機に日鉄に対する国民の不信感が広がり、後の分割民営化に繋がっていくことになる。

 そして、事態収拾で弱腰姿勢を見せた藤山は、総裁に相応しくないという与党から批判により辞任してしまった。

 この日鉄の混乱により常磐新幹線建設が遅れることになってしまう。この日鉄の一連の混乱が京葉電鉄にまで飛び火する事態となった。

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