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極左テロリスト

この凄惨な内紛劇は全国にテレビ中継された。全テレビ局の合計平均視聴率は50.2%を記録し、国民放送協会がその夜に放映した報道特集では平均視聴率59.4%を記録した。

 反対派同士の内ゲバによる殺し合いが人々を瞠目させた。これによって、共産主義や学生運動は暴力的で極めて危険という認識が世間に広がる。

 日本労農党書記長徳山司は慌てて、今回の騒動に対して非難声明を出した。

「これは学生たちが農民に寄り添わず、間違えた暴力思想によって行われた暴挙である。このような暴挙を決して許されるものではない」


 労農党が嘗ての同志をここまで糾弾したのには理由が2つあった。

 一つ目は労農党が社会の敵となることを防ぐためである。この暴力行為に賛同する労農党の解体を望む声が大きくなり、いずれ国民の声に推される形で政府に潰されるのは火を見るよりも明らかであった。労農党は生き残るために彼ら左翼学生を完全に切った。

 二つ目は、この時期から労農党が路線変更するようになっていた。これまでの闘争路線で限界に達しており、国民の反感を買うようになっていた。度重なる日本鉄道のスト権ストや数々の左翼テロで国民が辟易し、労農党は支持を失いつつあった。

 今回の空港反対も従前の闘争路線を継承し、煽りはしたものの結果は惨憺たるもので、これ以上の闘争路線は不可能であることを思い知らされた。

そこで路線変更で公害問題(後の環境保護活動)、男女平等、地方救済、零細企業救済に活路を見出そうとする。


それに対して左翼系の運動家は納得できなかった。彼らから見れば、労農党のこうした行為は裏切り行為に他ならなかった。当然、このような裏切りは許せないものであり、打倒せねばならないものであった。

 ここに至って、左翼系運動家は極左テロリストとして労農党に闘争を挑む、内ゲバが始まった。


 極左テロリストは労農党のトップであった書記長徳山司宅を深夜2時頃に襲撃した。徒党を組んだテロリストが徳山宅に対して、大量の火炎瓶を投げ込んだ。結果、徳山宅は炎上し、徳山司を始め家族4人が焼死した。

また労農党本部も襲撃される。徳山宅襲撃とほぼ同時刻に代々木にあった労農党本部にも火炎瓶を投げ込み、本部を全焼させた。

これだけでなく、左翼テロリストは次々と全国の労農党支部や幹部の自宅を襲撃していった。その数は全国で99件にも及び、それによって労農党側の死亡者が100人にも及んだ。


当初は労農党の青年団が党施設や幹部自宅を護衛していた。しかし、襲撃する極左テロリストが火炎瓶だけでなく拳銃を使用し、在日米軍相模総合補給廠から盗み出したロケットランチャーで襲撃するようになると守り切れない事態となった。


徳山の後を継いで労農党のトップに就いた宮野健一は、ここに至って警察に庇護を求めた。宮野は警察の庇護を得るため、捜査協力として極左テロリストの情報を警察に提供する。

警察は治安維持として、労農党の関連施設や幹部宅を守るようになる。こうして労農党の関連施設を警察の機動隊によって守られるという奇妙な光景が全国に展開された。

労農党から提供された情報は捜査に貢献した。次々と極左テロリストが逮捕される。その数78人で、後に裁判で26人が最高裁で死刑が確定し執行された。その中には空港団地焼き討ち事件に関わった者たちをいた。


こうした騒然した状態で1970(昭和45)年3月に大阪万博が開催された。機動隊による物々しい警備が敷かれる。一時期は開催中止という声もあったが時の内閣総理大臣武藤修が

「これで開催中止すれば、テロリストに屈服したことになる。警備を厳重にして開催する」

と宣言し開催となった。

 実際、機動隊による厳重な警備が功を奏してか、3月から9月に掛けての期間中に騒動はなく無事終えることができた。この間に極左テロリストが次々と逮捕され、極左テロリストが弱体化していった。

 当時、極左テロリストの取り締まりに当たっていた、浅香淳孝あさか あつたかはこのときのことを述懐する。

「とにかく薄氷を踏む思いで警備と取り締まりをした。正直なところ、万博を中止して欲しかったが、そうもいかず一日一日が無事に過ぎることを祈っていた」

玄武書房 「昭和テロリスト攻防戦」1989年刊 市川 剛著


 こうして極左テロリストが弱体化していく中で、彼らは起死回生の事件を起こす。1970(昭和45)年10月14日、大和航空153便をハイジャックする事件を起こした。通称「きそ号ハイジャック事件」である。

 8人の犯行グループが羽田空港発福岡空港着の旅客機をハイジャックした。乗員乗客併せて129人を人質に福岡空港に着陸した。犯行グループは捕らえられた仲間のテロリスト54名の即時釈放を要求し、彼らとともに北朝鮮に亡命するというものだった。


 総理大臣であった武藤は、この要求を断固として拒否する。

「犯罪者と交渉することは、法治国家として断じて許されるものでない。更に危険極まりない犯罪者たちを野に放つことは更なる犯罪を誘発し、こんなことは決して許されるものでない。速やかに投降せよ」

と武藤は言った。

 福岡空港で留め置かれたまま、膠着状態となり追い詰められたテロリストは乗客をドアに立たせて頭部を撃って射殺した。実際に人質を順次射殺することで、要求を飲ませようとした。これによって、5人の人質が射殺される。


 それでも武藤は交渉を拒否する。そして警察に対して突撃命令を下した。急遽、突撃隊が編成され突撃した。

 結果は悲惨だった。犯行グループ6人を射殺し2人を逮捕するも、人質となった乗員乗客が24人死亡し、突撃した警察官も4人が死亡した。

 こうして強硬姿勢で解決した。しかし一切の交渉に応じず、人質29人を死なせた武藤への非難は激しく、結局退陣に追い込まれた。


 同時にこの事件によって、極左テロリスト集団は力を失った。これ以後、日本国内における極左テロ事件が下火になっていった。


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