砦
三丸丘は現在の空港の西端に当たる場所である。現在は常磐新幹線と東関東高速道路空港支線の空港西トンネル口で、当空港の西の玄関口として機能している。今は新幹線や車が行き来するこの地が最大の激突となった。
1970(昭和45)年2月、大阪万博開催を前に世間は浮かれていた。千石文雄が陽気に大阪万博のテーマソング「万博音頭」が日本中で鳴り響いていた。
このとき、運輸省は空港の滑走路を4,000m6本とすることが内々に決定した。8本滑走路が絶望的と判断したからである。
当初は世界にも例にない如何なる風向でも4機同時着陸及び4機同時離陸を目指した。しかし激しい反対運動と羽田空港の限界の前に諦めざるを得なかった。羽田空港の容量が既にパンクしており、早急の開港が求められたからである。
それでも、取得した広大な敷地を最大限活用して、アジアのゲートウェイ空港を目指す意思が強くあった。そこで再計画されたのが4,000mの滑走路6本をH形に配するもので、今の滑走路配置である。
そして三山丘は空港の中心に相当しており、そこは未収用の土地であった。他の土地は妥協で諦め付くが、ここは要となる場所であったため必ず取得しなければならない土地となった。
運輸省が6本滑走路で検討している間、警察は空港団地焼き討ち事件の捜査に全力を挙げていたが検挙に至らない状態であった。旧炭鉱系の労働者たちは、警察の捜査に苛立ちを持つようになり、自分たちで反対派に対して復讐を果たそうとする声が出ていた。警察はそれを宥めて抑えることが精一杯で、いつ爆発するか予断を許さない状態となった。
反対派の農民と学生は空港団地焼き討ち事件で意気揚揚としていた。しかし、今後を危惧する者もおり、一枚岩でなくなりつつあった。
そんな中で左寄りのマスコミ記者から、反対派に情報提供された。焼き討ち事件より、マスコミ全般は反対派を批判する論調を張っていたが、末端の記者の中には未だに反対派にシンパシーを感じる者が少なからずあった。
その記者は情報では運輸省が8本滑走路を諦め6本滑走路に決定したこと、そして空港実現にあって三山丘が最重要であるとのことであった。
この情報に反対派は色めき出す。この三山丘の土地収用を阻止すれば、空港計画に重大な支障を来しことが出来た。ひいては空港建設中止に繋げられると期待した。
このときの様子を勇作は振り返る。
「学生は兎に角、血気盛んでとにかく闘争を好んだ。その中でも学生のリーダー格の一人であった藤野というのが特に煽っていた。大体、空港団地を焼き討ちすることを提案したのはあの男だった。あいつは反対派たちに三山丘に集結して決戦に挑むことを提唱した。そして実際に反対派たちを集結させて、決戦の構えを作らせた」
反対派たちは吸い込まれるように三山丘に集結し、砦を築き臨戦態勢に入った。意外なことに全国から集結した6,600人の機動隊員は、それを遠巻きで見ているだけだった。反対派が建設する砦や塹壕の建設を傍観していただけであった。
そうこうしている内に砦や塹壕が完成した。反対派たちは砦と塹壕の完成を祝い、酒盛りで盛り上がった。
そして、反対派が機動隊の意図を理解するのに少々時間を要した。機動隊は集結した三丸丘の周囲を有刺鉄線で二重に巻いた。そして至るところに検問を行う。こうして周囲一帯立ち入り禁止地区としたのである。
外からの連絡が断たれた三丸丘の反対派は食糧の補給が途絶え、次第に窮するようになる。機動隊は最初から兵糧攻めを行うつもりでいた。反対派は警察の罠に嵌ってしまったのである。
また深夜に無数の拡声器で反対派の砦に向けて革命歌「ワルシャワ労働歌」を流して睡眠妨害を行う。流石にこれは夜営する機動隊や付近の一般住民たちも睡眠妨害になったため、1回だけで取り止めた。
それでも機動隊による包囲の手は緩めず、反対派は飢えに苦しむようになる。幸い、水については井戸があったため渇きは免れたが飢えはどうにもならなかった。
完全包囲から一週間ほどで飢えの余りに機動隊に投降する者も現れるようになった。しかし機動隊は投降して来た者に対し、放水車による放水で吹き飛ばした。投降は認めないという姿勢だった。そして何より恐ろしかったのが反対派同士によるリンチであった。
このとき勇作はこの砦におり、そのときの様子を語った。
「ワシら、機動隊が突撃してくることは覚悟していた。学生は火炎瓶を大量に用意して待ち構えていた。しかし機動隊は突撃せず、卑怯にも兵糧攻めをした。これには本当に参った。手も足も出ないのだから。水は農業用の井戸があったから、渇きは凌いだが腹を壊して下痢で苦しんだ。それで飢えたり下痢で機動隊に降参しようとする者が出たが機動隊は放水で追い返した。その後が悲惨だった。降参しようとした者たちは砦の中に連れ込まれて『裏切り者』と罵られながら激しい暴行を受けた。そして何人かは死んだと思う。ワシは恐くて何もできなかった」
このように機動隊による包囲は僅か一週間で反対派を瓦解寸前にまで追い込んだ。実際、警察庁はいつまで包囲を続けるつもりであったかは、不明であったが後一週間で陥落するのは確実であった。
そんな包囲戦に一つの転機が訪れた。それが空港建設労働者たちによる復讐である。




