メタポリズム都市
2022(令和4)年5月、NR東日本新橋駅の近くで大銀座カプセルマンションの解体工事が行われていた。当マンションは関東国際空港が開港した同じ1972(昭和47)年に竣工し、50年を経て老朽化を理由に解体に至った。
無数のカプセルが積み重なったものである。外観は正に細胞の塊である。建物はそれほど高くなく、高さは54mでしかない。周囲は高さ150mを超すビルが群がって、当マンションを取り囲むようになっていたが、その異様な姿から異彩を放ち強い存在感を発していた。
設計は白鳥章夫である。当時、提唱されていた建築運動「メタポリズム」を具現化したものである。
メタポリズムとは建物や都市に生命の新陳代謝を取り込むことで、時代や環境の変化に合わせて建物や都市を成長させるものである。より具体的に言えば、建物や都市をユニット単位で構成して、必要に応じてユニットを交換する。いわば生命の細胞が入れ替わるように建物を入れ替えるというものであった。
メタポリズムで建設された建物は得てして奇抜なデザインになることが多かった。そして奇抜な建物は耐久性や保守性に問題があるため、次第に下火となり廃れていった。
それでも、そのデザインはレトロフューチャーを想起させるもので、サブカルチャーのマニアに支持される。そのためか老朽化していたにも関わらず、入居者がそれなりに住んでいた。
老朽化で解体となった際に住民は存続を訴える。しかし叶わず今回の解体に至った。跡地には周辺の土地も一緒に開発され、高さ150mのタワーマンションが建つ予定になっている。
こうして今では廃れてしまったメタボリズであるが、これが50年以上前の遷都計画である「新東京構想」のイメージとなった。
高度経済成長期だった昭和30年代から40年代において、都市への人口流入は怒涛の如くで人が都市を飲み込む勢いであった。とりわけ西日本と異なり、有力都市が首都圏くらいしかにない東日本では首都圏に人口が集中するようになる。そのため首都圏に生活環境は急速に悪化し、通勤地獄や大気汚染などを発生させ深刻な社会問題となっていた。
こうした時代背景で、これらの社会問題を解決するため様々な案が提唱された。東京湾を埋め立てる「東京湾計画」、富士の樹海に首都建設する「富士計画」など、壮大であるが現実感が全くないものばかりであった。メタボリズムもまた、そのような人口流入問題を解決するために提唱された案の一つであった。
そうした状況で、京葉電鉄の井出による新首都計画は現実感を持った内容であった。既に広大な敷地が確保されていたからである。
この広大な敷地に新しい首都に相応しい都市計画をメタボリズムの担い手であった丹沢洋三、白鳥章夫、菊池健吾などが構想図を次々と発表した。というより、世論工作を担当していた市村が彼らに顧問料を支払って、構想図を描かせた。それを広告代理店の帝報を通じて、新聞や当時普及し始めていたテレビで発表させていった。
発表されたデザインの詳細は建築専門誌「建築空間」の1967(昭和42)年新春号に掲載される。それを皮切りに新聞やテレビなどにメディア展開されるようになった。
発表された都市デザインは当然の如くデザイン性を優先したもので、正しく未来都市の様相で描かれていた。現実性のある奇抜さからか、少年向けの漫画誌にも掲載されるようになり、当時の少年の間で人気が沸き出るようになった。
このときに発表されたものは構想図でしかないため、具体的なものではない。あくまで大雑把なものでしかないが、それが故に建築家の理念が強く出たものであった。
新都市の東西を鉄道と高速自動車道が東西を走り、駅が街の中央に置かれていた。鉄道は新幹線と普段使いの通勤用鉄道の二種類の鉄道が描かれ、高速道路は上下線8車線が描かれていた。西の東京から東の関東国際空港へ向かうこと意識した配置である。
東西を走る大幹線を挟んで南は居住地区とし、北は政府機関と学術研究で構成された業務地区が配置されていた。
南の居住地区は駅に近い場所が高層住宅となっていた。駅から遠ざかるほど階層が低くなり、そして外延部には庭付きの一戸建てが立ち並ぶ。要するに身分の低い者は駅前の高層住宅で暮らし、身分が高くなるに従い外延部に住んでいくというものであった。
北側の政府機関地区と学術地区は何層にも重ねられた人工台地が広がる。その人工台地には所々でくり貫かれた場所があり、そこから算盤の珠のような形をしたユニットが幾層にも重なった高層建築がそびえる。例によって奇抜なデザインである。
市内の交通を担うのはモノレールで居住地区と業務地区を結び、人工台地の中を縦横無尽に駆け巡る様子が描かれていた。
もはや都市というよりは何かテーマパークのようであり、今日から見ればレトロフューチャーそのものだった。
市村はこれらの構想案をメディアの各方面に展開していった。これを機に京葉電鉄と広告代理店の帝報の合弁でテレビ番組制作会社「CCC」が設立される。
市村はその初代社長となり、一時京葉電鉄から離れる。その後はCCCの代表取締役社長を兼ねながら、京葉電鉄の取締役となる。最終的にはCCCの代表を後進に譲り、自分は京葉電鉄の副社長となった。
石山が言うには、この奇抜さは狙ってのことであった。
「市村副社長は、ハッタリがしたかった訳です。新しい首都ある以上、兎にも角にも明るい未来を見せて、世論の支持を得ようとした訳です」
メタポリズムの担い手たちは、単に奇抜なデザインを描くだけなかった。時間の経過ともに新陳代謝で変容する様子も描き込んでいた。それは自身たちが提唱している建築運動の啓発活動でもあった。
また建築家だけでなく、建設省の官僚も動くようになる。海外で建設された首都を研究し、近年建設されたブラジルのブラジリアの研究が盛んに行われた。歩道と自動車道を完全に分離し、自動車道で交差する場所は極力立体交差するデザインなどを取り込んでいった。
建築家によるハッタリと官僚による現実的なインフラ案が合わさり、発表の回を追うごとに未来的でありながら現実感が伴う首都イメージ図が形成された。
また新都市だけでなく、官公庁が去った後の東京の大改造も描かれていた。これは最早、奇抜さを通り越して奇想天外と言うべきものであった。
霞ヶ関の跡地には高さ300mはある巨大な柱が幾本か立ち、それらをブロック状の構造物が空中で縦横無尽に結んだものであった。正しく、巨大空中都市である。
そして建物が新陳代謝をしていくというメタボリズムのコンセプトで、空中のブロックが時代や環境の変化で交換する様子まで描かれていた。
だが高さ300mもある場所のブロックを交換するなど、そもそも実現不可能だった。実際、高さ54mしかないマンションですらも、ユニット交換が出来ずに解体となったことがその証である。
それでも、時代は高度経済成長で社会に熱気がこもっていたこともあって、当時は実現性があると信じる者も多かった。こうした未来に人々は夢を見たのである。市村の目論見と工作活動が大成功した。
新都市へ夢と期待が膨らんだ世情で京葉電鉄の全面支援を受けた砂岡による政界工作が功を奏した。1967(昭和42)年「首都機能移転推進法」の制定される。併せて新首都の概要が政府から発表された。
仮名称 :新東京市
主な機能:政府機能、学術研究機能
人口 :初期10万人、20年後60万人
面積 :政府機関(皇居含む)800ヘクタール、学術研究機関2,000ヘクタール、住居地域2,500ヘクタール
こうして、新東京市建設が関東国際空港建設と並ぶ巨大国家プロジェクトとして始動するようになった。




