第4話:宣告と夜明け
―2011年・ノボシビルスク―
長く厳しいシベリアの冬が終わりを告げ、
街の雪が泥混じりのシャーベット状に変わり始めた春のことだった。
修士課程の修了論文を書き上げた産休中のクリスティーナは、
久しぶりに訪れた静かな午後を利用して冬物の衣類を整理していた。
「そろそろ、このコートもクリーニングに出さないと……」
何気なく手に取ったアンドレイの分厚い冬用コート。そのポケットに丸められた紙くずのようなものがいくつか入っている感触があった。
ゴミだろうかと思いクリスティーナはそれを引っ張り出した。
シワを伸ばした瞬間…
彼女の全身からさーっと血の気が引いた。
それは見覚えのある裏路地の酒場のツケの領収書と、
金融機関からの新たな借入の明細書だった。
目を疑いながらクリスティーナは印字された日付を一つ一つ確認した。
――私が冷水を浴びて睡眠を削り、深夜にテキストを読み漁っていた日。
――過労で倒れ、泣く泣くデニスを両親に預けた日。
――そして、アリーナが莫大な金を振り込んでくれた、その直後の日。
生活が落ち着きを取り戻し借金が消えたことで、
アンドレイの心に油断が生まれていたのだ。
彼は妻が勉学と育児に追われている目を盗み、
こっそりと酒場に通い続けていた。
あろうことかアリーナが与えてくれた余裕を、
自分の酒代の穴埋めに使っていたのである。
怒りよりも先に絶対的な虚無感が彼女を包み込んだ。
両親が孫を預かってまで与えてくれた時間。
アリーナが何の担保もなく差し出してくれた友情と大金。
ミハイルのぶっきらぼうな優しさ。
それらすべてに胡座をかき再び酒に逃げた夫の姿を想像した時、
クリスティーナの中でこれまで張り詰めていた何かが音を立てて完全に切れた。
その日の夕方。
仕事を終えて帰宅したアンドレイは、部屋の異様な冷たさに気づいて足を止めた。
暖房はついているはずなのに、空気が凍りついている。
テーブルの上には彼がコートの奥底に隠していたはずの領収書の束が綺麗に並べられていた。
それを見つめるクリスティーナの目は彼がこれまで見たことのないほどひどく冷たく凪いでいた。
「クリス……これは、違うんだ。ほんの少しだけ、プレッシャーがきつくて、息抜きに……」
言い訳を探すアンドレイの言葉をクリスティーナは静かに遮った。
「私の血を吐くような努力は…子供を手放してしまった悲しさは…あなたにとってどうでもよかったのね」
「違う! 僕は君も子供も愛してる! 本当だ!」
「愛しているなら…愛しているならなぜ私たちが必死に作った時間を…命を削って手に入れたお金を…どうしてグラスの中のお酒に変えられるの!?」
「……っ」
アンドレイは言葉に詰まった。
クリスティーナは立ち上がり夫を真っ直ぐに見据えた。
そこに一切の感情もこもっていなかった。
「もう限界よ…アンドレイ。……私たち、離婚しましょう」
冷たく言い放った言葉が凍てつく部屋に静かに響き渡った。
その言葉が持つ本当の意味と、
妻の瞳に宿る決定的な見切りを理解した瞬間、
アンドレイの顔は恐怖で歪んだ。
自分がどれほど取り返しのつかない裏切りを犯したのか。
酒に逃げたことで、世界で一番愛する女性と子どもたちを永遠に失おうとしている。
言い訳の余地など、どこにもなかった。
「……すまない!僕が…僕が間違っていた……!」
アンドレイは膝から崩れ落ちた。
彼は這うようにして台所へ向かうと、
戸棚の奥に隠してあったウォッカの瓶をすべて引っ張り出した。
そして流し台のシンクに向かって狂ったように酒を叩き割り、中身をすべてぶちまけた。
強烈なアルコールの匂いが部屋に充満する。
「二度と飲まない! 一生!一滴たりとも酒は飲まない!だから許してほしい!もし僕がこの誓いを破ったら…その時は君が子どもたちを連れて出て行ってくれ! 一言も文句は言わない!だから頼む!君達を失いたくないんだ!」
ガラスの破片で手を切り、
血を流しながらアンドレイは泣き叫んだ。
「僕は弱い男だ。でも…君と子どもたちを失うことだけは絶対に耐えられない……! お願いだクリス!僕に父親でいさせてくれ……!」
大の男が声を上げて泣きじゃくっていた。
それは彼が自分自身の弱さとごまかしを完全に認め、
真の意味で人生の覚悟を決めた瞬間だった。
血の滲んだ彼の手――
家族を養うために日雇いの荷下ろしでマメだらけになったその無骨な手を見て、クリスティーナは静かに目を閉じた。
彼女の頬を一筋の涙が伝い落ちる。
アンドレイが酒をやめると宣言したのはこれが初めてだった。
「……それが、あなたの誓いなのね?」
自分はどうだったのだろう?
クリスティーナは自身の行動を思い返した。
大学院へ行くことは自分にとっては最善の選択だと思った。
でもそれが元で周囲の友人や両親に迷惑をかけた。
その過程をそばで見ていたアンドレイ。
重圧を与えたのは自分のせいでもあったのではないか?
「わたしね…周りが見えていなかったのかもしれない」
そう言ったクリスティーナの言葉をアンドレイは否定した。
「違う。僕が僕自身の弱さに負けただけだ。君の努力に引け目を感じて…」
「そうね…でも私も同じよ…どんどんと苦しくなる暮らしの中で思いやる余裕を失っていたわ…私たち人の親になったのに…未熟なままだった…」
「君は違う。僕なんだ…全ては僕が悪い…もっと稼げていたら君にそんな言葉を言わせずに済んだんだ…許して欲しい。誓いは守る。もう生涯酒は飲まない」
クリスティーナはその言葉を信じることにした。
この決断が間違っているのかもしれない。
それでもデニスとロマンを迎えに行く時はアンドレイと一緒に迎えに行きたかった。
この夜の和解を経てアンドレイは人が変わった。
翌日すぐに病院へ行きアルコール依存症の治療を受け始めた。
離脱症状の震えや悪夢に苦しみながらも、
彼は自らに課した断酒の誓いを生涯ただの一度も破ることはなかった。
同年、クリスティーナはついに夜間大学院を修了し、
社会科学の修士号を取得する。
泥水をすすりながら手に入れた知識という名の武器は、
やがて彼女の人生を大きく切り拓く力となっていく。
夫の断酒と、妻の学位取得。
アンドレイは夜に酒を飲んでいた時間を資格の取得のための勉学の時間に変えた。
「勉強していると気がまぎれて良いよ」
そういう彼は震える手で教科書を持ちながらそう言って笑った。
彼は整備に関する資格をいくつか取得して、
より高給な職場に転職した。
コツコツとアリーナに借金を返す毎日。
クリスティーナ自身も修士号の取得により基本俸給が上がった。
蓄えた知識を基に実績を積み更に昇給も重ねた。
地獄のような三重生活を乗り越え、ようやく貧困の出口が見え始めていた。
実家からデニスとロマンを呼び戻した家庭には、
本当の意味での平穏が訪れ始めた。
2012年には長女リュドミラが、
2014年には次女ヴァルヴァラが誕生。
四人の子どもたちに囲まれた食卓にはかつてのような殺伐とした空気は微塵もなく、
貧しいながらも温かな笑い声が溢れるようになっていた。
――しかし世界は彼女たちに安息を許さなかった。
次女が生まれた2014年。
クリミア危機の勃発による欧米の経済制裁やそれに伴うルーブルの急落と激しいインフレがロシア社会を直撃した。
物価が跳ね上がり人々は将来への不安に怯えた。
「また、あの極貧の時代に戻ってしまうのか……」
町の人々が不安に怯え立ち尽くす中、
クリスティーナもまた、
押し寄せる不安に唇を噛み締めていた。
そんなある日のことだ。
ノボシビルスクのクリスティーナの自宅のドアを乱暴にノックする者がいた。
扉を開けるとそこには仕立ての良いブランド物のスーツに身を包み、
赤いルージュを引いたアリーナが立っている。
モスクワでベンチャーキャピタリストとして成功を収め、より一層の凄みと鋭さを増したアリーナは、
呆然とするクリスティーナに向かって不敵な笑みを浮かべた。
「久しぶりね、クリス!経済制裁だ何だってそこいらの連中が大騒ぎしてるけど…こういう時こそビジネスのチャンスよ!」
アリーナはそう言うと、クリスティーナの胸ぐらを掴むような勢いで鋭く目を細めた。
「さあ!あの時の借金の利息、たっぷり払ってもらうわよ!」
貧困に喘いだ時代をくぐり抜けて新たな世界を突き付けるようにアリーナは言う。
ーーねえ、あんた起業しなさいなーー
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第一幕は次話の幕間にて終了となります。
幕間は本日19時20分に公開予定です。
次話もお付き合いのほどよろしくお願いいたします!




