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クリスティーナ・コズロワ伝 ー80億分の1の軌跡ー  作者: 江崎賢介
第一幕 夢の前夜

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3/5

第3話:狂気と愛情

―ノボシビルスク―


ミハイルやアリーナから遅れること1年。

2006年に23歳になったクリスティーナはノボシビルスク市の公務員として働き始めていた。


ソビエト連邦の崩壊から15年が経ちロシア国内もかつての混乱に比べると随分と安定してきたように思えた。


しかし役人の給料は安い。

役所の周囲を取り巻く環境は贈収賄の慣習が未だに色濃く残っている。


正直なところお金は喉から手が出るほど欲しい。

だがクリスティーナは信念として賄賂の類は一切跳ねのけた。


一度でも悪事に手を染めれば市民のために泥水をすする覚悟で働くミハイルに二度と顔向けができなくなる気がしていたからだ。

少しずつ奨学金を含む学生時代の借金を返済しながら仕事に真面目に取り組む日々を過ごしていた。


アンドレイの小さなアパートでの同棲生活は最初こそささやかな温もりに満ちていた。


しかし現実は詩的な愛情だけでは維持できない。

奨学金の返済、

細々とした生活費、

そして実家の妹の学費を少しでも支えようとするクリスティーナの焦燥は日を追うごとに募っていく。

彼女は昼夜を問わず働き詰めだったが手元に残る金は雀の涙ほどだった。


そして、生活が苦しくなるにつれてアンドレイの酒量はさらに増えていった。


「クリスに負けずに稼がなければならない。クリスに負けずにしっかりしなければいけない」


そんな独りよがりな重圧。

そして思うようにいかない日々の暮らし。


無力感から逃れるようにアンドレイは毎晩のように安物のウォッカの瓶を開けた。


「……すまない、クリス。また今月も生活費が足りなくなってしまった……」

酔いに任せて項垂れるアンドレイを見るたび、

クリスティーナの胸は鉛のように重くなった。


かつて酒場で自分の失敗に責任を持ち、

優しく下宿まで送り届けてくれたあの青年の面影は、

日々のアルコールと生活苦によって少しずつ削り取られていくようだった。

愛しているからこそこのままでは二人とも共倒れになってしまうという恐怖が毎日のように彼女の心を刺した。


そんな極限状態の中…

25歳を迎えた2008年にクリスティーナは妊娠する。

産科で妊娠を告げられた帰り道、

心細さでクリスティーナは道端にうずくまって泣いた。


家に戻りアンドレイの帰りを待った。

アンドレイは妊娠の事実をどう受け止めるだろうか?

本来ならアンドレイは喜んで受け入れてくれることは解っていた。

それでも最近のアンドレイを見ていると彼を信じ切ることができなくなっていた。


アンドレイが帰宅した。

酒の匂いがしないことを確認してからクリスティーナはアンドレイに妊娠の事実を告げた。


アンドレイは少し驚いた表情を浮かべた後で

「嬉しいよ。僕たちの子供が産まれるんだな…まだ僕は…自分で自分に自信をもてない。特に最近の僕は自分でも自分を好きにはなれない。でもクリス…そんな僕でも良かったら…僕と結婚してくれないか?産まれてくる子供の父親としてこれからも一緒に暮らしたい」

真面目な顔でアンドレイはそう言った。

クリスティーナは涙を浮かべながら頷いた。


その年の冬。

クリスティーナは長男のデニスを出産する。

新しい命の誕生は若い夫婦にとってこの上ない喜びだった。

小さな産声をあげたデニスを抱きしめたとき、

クリスティーナの心には温かな光が灯った。

アンドレイもまた我が子の小さな手を握り締めながら涙を流して誓った。


「俺が父親だ。この子とクリスティーナを守ってみせる」

だが現実はあまりにも残酷だった。

赤ん坊が生まれたことで出費は跳ね上がり、

アンドレイの肩にかかる重圧はさらに倍増した。


凍えるような冬の夜。

本業の後に日雇いの荷下ろし作業をして帰ってきたアンドレイの手にはデニスのための粉ミルクの缶が握られていた。


クリスティーナは気づいていた。

彼の履いているブーツには穴が開いていて、

雪水が黒く染み込んでいることに。

自分の靴を買い換える金を削ってこの人はミルクを買ってきたのだ。


「ありがとう!アンドレイ!」

そう言って彼を労ったその日の深夜――


ふと目を覚ましたクリスティーナは台所の暗がりの中、震える手で安物のウォッカを煽りながら音を殺して泣いている夫の背中を見てしまった。

彼を責めきれなかった。

愛しているからこそこのままでは二人とも共倒れになってしまうという恐怖が彼女の心を容赦なく刺した。


――このままでは私たちもこの子もすべてが潰されてしまう。


根本からこの泥沼を断ち切らなければならない。

それをするのは自分しかいない!


2009年、26歳を迎えたクリスティーナは周囲が耳を疑うような決断を下した。

「私、夜間大学院に行くわ!社会科学を学び直して昇給を早める!この生活を根底から変えるの」

その言葉にアンドレイは血走った目を見開いて言った。

「正気か…!? ただでさえ毎日の生活で精一杯なのに…育児をしながら夜間大学院なんて……いや、デニスの面倒は僕が見るにしても…そんなの体が持つわけがない!」

涙ながらにそう諭すアンドレイの言葉にもクリスティーナは耳を貸さなかった。


周囲の友人たちも猛反対した。

ミハイルは

「いくら何でも今回の無茶は度を越してる!それに昼はどうする?ベビーシッターを雇うのか?気を悪くしてくれるな。そんな余裕が今のお前たちにあるのか?考え直すんだクリス!」

と声を荒げた。


モスクワのアリーナでさえ

「自分が母親だってこと忘れてない?」

とたしなめた。

それでも彼女の決意は揺るがなかった。


睡眠時間は1日に2時間。

夜中、デニスが夜泣きをすると、

クリスティーナは片手でゆりかごを揺らしながら、

もう片方の手で社会科学の分厚い専門書を広げた。


暖房費を節約した氷点下の部屋で、

睡魔で意識が飛びそうになると、

窓のすきま風で氷のように冷え切った水を洗面器からすくい、自分の顔に浴びせた。

水滴を滴らせ、血走った目でノートに文字を書き殴る姿はまるで生きるために牙を剥く野獣だった。


その異常な狂気を見たアンドレイはたまらず本を取り上げようとした。

「もうやめてくれクリス! 僕がもっと働くから!」

しかし彼女は彼の手を激しく振り払い獣のように吠えた。

「これを読まないと!私たちは一生這いつくばったままなのよ!!」

家族を守るためという目的は同じなのに余裕を失った二人の心は互いを想えば想うほど致命的にすれ違っていった。


そんな地獄の生活が長く続くはずもない。

2010年。

過労が限界に達したクリスティーナは職場で倒れた。


見かねたミハイルはクリスティーナの両親に連絡を入れた。

クリスティーナがそのことを知ったのは両親から電話を受けた瞬間だった。

「私たちは頼りにならない親なのかもしれない。でも最近は生活にも余裕が出てきたの。せめて生活の基盤が整うまででいい。デニスをこちらで預からせてほしい」


その提案にクリスティーナは涙を流した。

ミハイルのぶっきらぼうな優しさに。

あれだけ孝行したいと思っていた両親にまた迷惑をかける情けなさに。

我が子を手元から手放すというのに真っ先に救われたと考えてしまった自分の浅ましさに。

複雑に感情が混じり合う中でその涙の理由を上手く説明はできなかった。


休暇を取ったミハイルがデニスを迎えに来てくれた。

アンドレイはミハイルに会わせる顔がないのか、

酒が身体から抜けきらないのか、

ベッドで布団をかぶったままだった。


ミハイルはむずかるデニスをあやしながら

「責任を持って送り届ける。お前は自分が今すべきことに全力を尽くせ。アンドレイのことは…責めてやらないでくれ…男って多分そういう時もあるんだ。酒場で働いてたからなんとなく解る。長い目で見てやってほしい」

泣き笑いのような表情を浮かべてそう言った後、

ミハイルはゆっくりと立ち上がった。

寝室に視線を向けてからアパートから去っていく。

クリスティーナはアパートの窓から遠ざかるミハイルの姿を見送った。


同じ年、修士課程の修了を翌年に控えていた彼女は再び妊娠する。

これ以上の負担を考え一度は堕胎を検討した。

だがアンドレイが

「堕胎はしないでほしい」

と泣いて頼んできた。


せっかく授かった子供だ。

クリスティーナだって産まれてきてほしい。

思い詰める彼女の元にモスクワから突然巨大な段ボール箱が届いた。

中には富裕層が買うような高級なベビー服や玩具が無造作に詰め込まれ一番底には乱筆のメモ書きが入っていた。

『ミハイルに聞いた。あんたの借金は全部チャラにしてあげる。無茶も程々にしなさい!せっかく授かった子供は産むこと。あげるんじゃないわよ!落ち着いたら返してもらう!利息はあんたの人生で払え。 ――アリーナ』

震える手で手紙を握りしめたまま銀行へ行き、

残高を確認したクリスティーナはATMの前でへたり込み声を上げて大泣きした。

有無を言わさぬアリーナの不器用な愛情が、

首を絞め続けていた高金利の借金地獄を完全に消し去ってくれたのだ。


借金が消え両親がデニスを預かってくれたことでクリスティーナは産休・育休に入りながら学業に専念できる環境を得た。


嵐のような日々にようやく一時の平穏が訪れたかに見えた。

無事に産まれてきてくれた次男はロマンと名付けられた。


ロマンの出産後、母親がデニスを連れてノボシビルスクを訪れた。

成長したデニスを見てクリスティーナは涙を流した。

「この子すごく賢いのよ。あなたにそっくり」

そう言って母は微笑んだ。

「あのねクリス。ロマンも私たちが預かりたいの。いいかしら?兄弟なんて一緒に暮らさないと兄弟だって実感も湧かないと思うわ。お父さんもそれを望んでる」

その申し出をクリスティーナはありがたく受け入れた。

必ず家族全員で暮らせる時間を作ってみせる。

友人たちの恩義に応えてみせる。

そんな決意を新たにしながら。


しかし翌2011年。

修士号の取得を目前に控えたある日、

事件は起こるのだった。


第3話を最後までお読みいただきありがとうございます!

「面白い」

「続きが気になる」

「周りに迷惑しかかけてないのに何が女傑だよ!」

そんな風に感じていただけたなら…

いや!感じていただけなかったとしても!

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泣かない程度に歓喜します!

第4話は明日の9時20分に公開予定です。

第一幕は次話の後、幕間を挟んで完結です。

次話もお付き合いのほどよろしくお願いいたします!

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