↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クリスティーナ・コズロワ伝 ー80億分の1の軌跡ー  作者: 江崎賢介
第一幕 夢の前夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/6

第2話:それぞれの旅立ちと紡いだ絆

―2005年・ノボシビルスク―


クリスティーナは大学を無事に卒業した。

同じ大学でともに貧しさと闘いながら学んだ仲間たちはそれぞれの戦場へと足を踏み出した。


ミハイルは予定通りノボシビルスク州の地方官僚としての道を歩み始めた。

要領よく立ち回るタイプではない彼は、

配属された役所の窓口で市民からの山のような苦情を真っ向から受け止め、

時に上司の理不尽な命令に歯痒い思いをしながらも、目の前の現実と格闘していた。


「社会を根本から変えるには、まず足元の一人ひとりの生活を制度で支えなければならない。そのためには俺自身が実力を蓄えなきゃ話にならない」

そう語る彼の背中には日増しに役人としての重みが加わっていった。


仕事の傍ら夜間大学院に通って行政の専門知識を貪欲に吸収し続ける彼の毎日は、

自分のためというよりも社会の理不尽に泣く人々を救うための修行のようだった。


そんなミハイルは多忙を極めたせいか恋愛をすることもなかった。

アンドレイとの交際を報告した時には彼には珍しく満面の笑みで祝福の言葉をくれたが、

自身の恋愛となると明るい見通しなど立ちようもない状況のようだった。

もっともアリーナに言わせると

「良い男だと思うけど女を惹きつける要素が全くないわね!」

という手厳しい評価だった…


一方のアリーナはまったく異なる次元で加速している。

彼女が選んだのは入学当初からの目標どおり金融という弱肉強食の世界だった。

卒業と同時にモスクワへと拠点を移し、

ベンチャーキャピタリストとしての生活を始めることになった。


アリーナがモスクワへ旅立つ前夜

彼女は狭い酒場でクリスティーナには葡萄ジュースを、

ミハイルにはビールを奢り、

自ら送別会を主催していた。


珍しく酒に酔った彼女は不敵に笑いながら

「あんたたちさ!ここでずっとお役所の書類や奨学金の返済に追われてるつもり? 人の欲望がうずまくモスクワに一緒に来なさいよ。お金ってのはね綺麗に稼ぐものじゃなくて欲を嗅ぎつけて掘り出すものよ!ノボシビルスクじゃ人の欲の匂いが少なすぎると思わない?」

その顔には地方の貧しさから這い上がろうとする者にしか出せない圧倒的な野心の輝きがあった。

在学中から少額ながらも株式投資で資金を蓄え、

奨学金は卒業と同時に返済を完了していた彼女の言葉には説得力も伴っていた。


「金は大事だ。そんなことは俺もよくわかってる。俺にはアリーナのように器用に立ち回ることなんてできない。地道に道筋を作っていくことしかできないんだよ。地味に見えても困ってる誰かに寄り添いながら歩けば目指してる場所へたどり着けるって俺は信じてる」

ミハイルは酒に酔っているのか照れているのか、

顔を赤らめながら真剣な目でそう言ってから困ったように笑った。


「あんたホント冴えないわ。でもそういう考え方を真剣に言えるところは好きよ。絶対に抱かれたくはないけどね!それで?クリスはどうなの?」

アリーナは笑いながらクリスティーナを見た。

「前にも言ったけどあんたのセンス本当に好きよ。真面目だしね。進路決まってないんでしょ?あたしとモスクワに来なさいよ。少しの間なら援助したって良いわ」

少しだけ熱を帯びた目でアリーナは言った。

「ありがとうアリーナ…私だってたくさんお金が欲しいわ。でもね、あたしはアンドレイとも一緒にいたいの。だからノボシビルスクでなんとか頑張るつもりよ」

少し考えてから迷いのない声でクリスティーナは答えた。


アリーナは少しの間目を伏せてから

「あの男はやめときなさいって!あんな酒浸り!ろくなもんじゃないわ!」

とクリスティーナに絡んだ。

その言葉にミハイルが反応する。

「アンドレイのことを悪く言うな!そりゃあ…あの飲み方は褒められたもんじゃが…それでもあんなに優しい男はいない!仕事だって真面目にやってる!」

「どうだか!」

「なによりクリスに失礼だ!クリスに謝れ!アリーナ!」

酒が入った二人は言い争いを始めていた。


クリスティーナは怒っていなかった。


アリーナが真剣に自分を心配してくれていることも、

ミハイルが自分の気持ちを尊重してくれていることもよく解っていた。


「ねぇ…もうやめない?しばらくわたしたち離れ離れになるのよ?モスクワって遠いから次に会えるのがいつになるかわからないのよ?」

葡萄ジュースを飲みながらクリスティーナが言うと二人は同時にクリスティーナを見つめた。

そして何を言うでもなく互いのジョッキをぶつけると一気に酒を飲みほした。


「それじゃあ、あの酒浸りを見習って今日はとことん飲むか」

ミハイルが笑いながらそう言った。

「それで…あのお優しい男とは今後はどうするつもりなのかとことん聞かせてもらうわよ?覚悟しなさいクリス」

そう言ってアリーナも笑っていた。

最後は二人とも酔いつぶれてしまい、

アンドレイに連絡をして二人を下宿へと連れ帰るのを手伝ってもらった。


アリーナは翌日の列車を乗り過ごしたらしい。


モスクワに拠点を移してからのアリーナは正に水を得た魚のようだった。

冷徹なまでのリアリズムと、機を見るに敏な嗅覚。

アリーナは瞬く間に頭角を現し、やがて業界でも恐れられる若手キャピタリストへと駆け上がっていく。


でもそれはまだ先の話。


アリーナの誘いに乗ることができなかった肝心のクリスティーナ自身はといえば現実の壁に直面していた。


大学在学中に妹への学費の援助を行い、

さらに生活が厳しくなった彼女は食事を抜く回数を増やし、

時にはアンドレイから食事や服の援助を受けて、なんとか大学を卒業したのである。


大学院進学を目指して勉学に励んでいたクリスティーナだったが、

いざ試験という段になって見通しの甘さに気付く。

学費が捻出できなかったのである。


受けた奨学金の返済はこの年から始まる決まりとなっていた。

大学進学当時のクリスティーナにはそのような厳しい条件でしか奨学金を受け取る事ができなかったのだ。

新たに大学院進学のための奨学金を借り受けたとしても早々に生活が破綻することは目に見えていた。


学士の資格を手に入れたからといって、進路が定まらなければ目の前の生活が楽になるわけもない。

あの極限の飢餓と借金に苦しんだ学生時代を耐え抜いた彼女を待っていたのは安息ではなくさらなる社会の荒波であった。


ミハイルには

「なんでもっと早く相談しない?学費の算段なんて一番最初に終わらせてるものとばかり思ってた!」

と呆れ顔で叱られた。


アリーナには

「あたしのお古で良ければパトロン紹介しようか? あのジジイ…あたしがモスクワに行くから関係はおしまいって言ったら『一人じゃ寂しくて生きていけない』なんて言ってたからさ。学費くらい出してくれるって!」

と思わず飛びつきたくなりそうな誘惑も受けた。

その話を聞いたミハイルはぐっと唇を噛みしめ、

悔しそうに静かに涙を流した。

それを見た二人はそれ以降、この話題を口にすることはなかった。

友人の純粋な痛みはクリスティーナのプライドを守ってくれたのだ。


そんなクリスティーナの心に温かな灯をともし続けてくれたのはアンドレイだった。


「下宿を出てウチで暮らせばいい。稼ぎは多くないけど少しは蓄えもあるから君の生活費くらいは出してあげられると思う。もちろんクリスが了承してくれるならだけど……」


最初こそ

「この優しさの裏に何か計算があるのではないか」「また人に借りを作ってしまうのではないか」

と身構えていたクリスティーナだったが、

彼の底抜けの善良さに触れるうちにその警戒心はとっくの昔に氷解していた。


「それならいっそのこと私と結婚しない?」


クリスティーナは思い切ってアンドレイにぶつけてみた。

アンドレイは少し困ったような表情を浮かべながら首を横に振った。

「もう少し時間が欲しいんだ……君のことは愛している。でもまだ自分に自信も持てない。君と将来生まれてくる子供にふさわしい男になれたと思えた時に僕の方から申し出たい」

その言葉は焦燥感を抱えるクリスティーナにとっては決して嬉しいものではなかった。

それでも彼の不器用な誠実さに触れたことで、むず痒くなるような喜びも感じていた。


クリスティーナは家庭教師を続けながらわずかな収入を得つつ仕事を探した。

稼いだ金は奨学金の返済に充てながらアンドレイの小さなアパートで同棲を始める。


築年数の古いアパートの部屋は冬になると窓枠から冷気がすきま風のように吹き込み、

古い床板がきしむ音がした。


それでも愛する人のためにスープを温め、

脱ぎ捨てられた上着を畳む日々は、

それまでの冷え切った学生生活に比べればまるで夢のようだった。

アンドレイは一緒に暮らし始めてからも変わらず、

疲れて帰ってきた彼女の肩を優しく揉んでくれた。


――ただ一つだけ。

日を追うごとにクリスティーナの胸を重く締め付ける影があった。

それは、毎晩のようにアンドレイが空にする酒瓶の数だった。


仕事へのプレッシャーや、

将来への得体の知れない不安に押し潰されそうになると彼は決まってアルコールに手を伸ばした。

「飲まないと…明日の朝を迎えるのが怖くなるんだ」

酒臭い息を吐きながら虚ろな目でそう呟くアンドレイ。

クリスティーナは時折彼の体を気遣って酒を減らすように優しく忠告したが、

彼は苦笑いを浮かべるだけで聞き入れてはくれなかった。

生活の大部分を彼の収入に支えられている手前、強くたしなめることもできず、

彼女はただ増えていく空き瓶を物置の隅に片づけることしかできなかった。


優しさと優しさが引き寄せ合ったはずの二人の暮らし。

しかしその足元には冷たいアルコールの匂いをまとった不安の溝が、

少しずつ…しかし確実に深まりつつあった。


小さな失敗から始まった縁はいまや生活の現実という名の荒波に揉まれていた。

波乱万丈なクリスティーナの半生はまだ始まったばかりだった。


第2話を最後までお読みいただきありがとうございます!

「面白い」

「続きが気になる」

「クリスティーナ影薄くね?」

そんな風に感じていただけたなら…

いや!感じていただけなかったとしても!

下記の

"☆☆☆☆☆"

から評価・応援をいただけますと!

執筆の凄まじい励みになりますッ!

ブックマークなんてしていただいた日にはもう…

泣かない程度に歓喜します!

第3話は本日の19時20分に公開予定です。

次話もお付き合いのほどよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。