第1話:シベリアの片隅で
1983年、ソビエト連邦南部。サライール山脈の裾野に広がる乾燥した寒村。
その中でも最も貧しい層の農家にクリスティーナ・コズロワは生を受けた。
3歳年上の兄、2歳年下の妹に挟まれた長女であった。
冬ともなればシベリアを吹きぬける凍てつく風がボロボロの木造校舎の隙間から侵入し、薪ストーブのまわり以外は氷点下の世界となる。
クリスティーナは、布を何重にも巻き付けたボロ切れの靴を履き、冷え切った教室の硬い木の椅子に座っていた。
ノートを買う余裕などない家では、古ぼけた帳簿の余白や新聞の隙間に文字を書き込み、鉛筆の軸が指に食い込むまで短くなっても使い続けた。
だがそんな灰色に塗りつぶされた過酷な日常の中で、
彼女には世界を鮮やかに彩る一つの特別な才能があった。
目にしたものをまるで本物の写真のように正確に描き写す絵画の才能である。
紙などないため彼女は納屋の壁板や庭先の石炭の切れ端を拾い集め、
時には地面に這いつくばって小枝で土を削り、
母親が疲労にまみれた顔で乳飲み子をあやす姿を驚くほど正確に描き出した。
村の大人たちはそのスケッチを見て息を呑んだ。
「この子きっと将来モスクワで有名な画家になるな」
その言葉を聞くたび、クリスティーナの胸には小さな温もりが灯った。
いつかこの絵の腕前で、毎日寒さに震える両親に暖かい家をプレゼントしたい。
食べきれないほどのご馳走を家族で一緒に食べたい。
それが少女の純粋な夢だった。
しかし暮らしの圧倒的な貧しさは彼女から正規の美術教育を受ける機会を微塵も残さず奪い去っていた。
美術学校の門を叩くことなど月に手を伸ばすようなものだった。
同じような底辺の家庭では食べるために学校へ行くことすら諦める子どもたちも珍しくなかった。
そんな中クリスティーナの両親だけは違った。
「教育の機会を与えなければ子供達もまた貧しさに跪くことになる…」
両親は子どもたちから学校教育を受ける機会だけは絶対に奪うまいと、
文字通り爪に火を灯すような暮らしを送りあかぎれで血が滲む手で働き続けた。
クリスティーナは両親がどれほどの犠牲を払い自分を学校に通わせてくれているのかを骨の髄まで理解している。
だからこそ絵を学びたいという本心を……
喉まで出かかった言葉を、
彼女は毎日のように飲み込んだ。
自分の夢よりもまずは家族が今日一日を生き抜くこと。
そして両親が血を流す思いで守ってくれている教育の機会を一瞬たりとも無駄にしないこと。
それが少女なりの家族に対する精いっぱいの恩返しだった。
そして時は流れ、1991年。
ソビエト連邦の崩壊という歴史の荒波が静まり返った農村を容赦なく直撃する。
計画経済の崩壊とハイパーインフレは人々の生活を根底から破壊していった。
国家の教育予算は蒸発。
南部農村の学校を襲ったのは想像を絶する崩壊だった。
教師への給与未払いが常態化し、
数ヶ月間現金が支払われない教師たちは生きるために自ら畑のジャガイモを掘り、
授業中に内職のセーターを編むようになった。
窓ガラスが割れても直す予算はなく、
段ボールやビニールで塞がれた窓から冷気が吹き込む。
子どもたちはレーニンや共産党の栄光が色濃く残ったソ連時代のボロボロの教科書をボロボロになるまで使い回した。
もともと貧しかったコズロワ家の生活は連邦の解体と共に底が抜けた。
授業が終われば子どもたちは生きるためのサバイバルに駆り出される。
家の菜園でのジャガイモの植え付けや収穫、
家畜の世話。
「勉強をして都市の大学に行く」
という夢など贅沢品の極みであり、
「今日、明日の食料をどう確保するか」が家庭の最優先事項へと変わっていった。
貧しさは勉学の時間を容赦なく奪っていく。
それでも彼女は歯を食いしばって通学を続けた。
15歳を迎えたクリスティーナは一縷の望みをかけて芸術高校の受験に挑んだ。
しかし専門的な指導を受けたことのない彼女がその高い壁を越えられるはずもなかった。
不合格を告げる手紙を冷たい風が吹き抜ける中で受け取った時も涙は出なかった。
心の中で燃やし続けていた画家への夢が冷たい泥水によって消え去った瞬間だった。
義務教育を修了した南部農村の貧しい若者たちに待っていた選択肢は極めて残酷なものだった。
地元の村に残り仕事がないためにマフィアが斡旋する密造酒や闇市といった非合法な世界に絡め取られる者達。
男子の中には最低限の衣食住を求めてチェチェン紛争などの危険な紛争地帯へ志願する者もいた。
女子は若くして結婚するか、
あるいは都市へ出てメイドや市場の売り子…
時には危険な出稼ぎの道を選ぶしかなかった。
「…私の絵じゃ、誰も救えない。絵の才能なんてこの世で磨くことができなければ役立たずの贅沢品よ」
現実を冷徹に受け入れた彼女は画家になる夢を心の奥底へ鍵をかけて封印した。
感傷に浸っている暇などない。
家族を飢えから救い出し自分自身の尊厳を守り抜くためには、
夢物語ではなく確実に生活の安定につながる収入を手に入れなければならない。
社会の仕組みを解き明かし上層へと這い上がるための武器を掴むこと。
それが、彼女に遺された唯一の道だった。
兄から譲り受けた幾人もの手を渡り歩いた教科書を手に、
農作業の手伝いの傍らでも必死に勉学に励んだ。
兄は学校を卒業し近隣の都市で工員として働き始めた。
「俺は金を貯めて大学に行って必ず教師になる。でもその前におまえが大学に行くための資金の足しにする金も貯めてやる」
兄の言葉を信じることだけがクリスティーナの希望であった。
18歳の春。
クリスティーナは故郷の村を後にする。
ノボシビルスク大学社会科学部に合格した彼女は奨学金を受ける条件を満たし高等教育を受ける機会を与えられたのである。
兄が送ってくれた金は大学の受験料と
ノボシビルスクまでの移動費と
下宿に住む初期費用を払うだけで消えてしまった。
それでも兄の心遣いがありがたかった。
兄からの手紙の最後には、
「今年から夜間大学に通うことになった」
と書かれていた。
兄もまた自身の道を切り開くために懸命に励む傍らでクリスティーナのために資金を溜めていてくれたのだと思うと涙が止まらなかった。
窓ガラスが割れすきま風が唸るシベリア鉄道の硬い座席に腰掛ける。
外を見ればどこまでも続く灰色の荒野が広がっていた。
列車が重苦しい汽笛を鳴らして動き出す。
彼女はガタゴトと揺れる車内で冷たく冷え切った自分の両手を固く握りしめた。
――私は這い上がる!どんなに惨めでも絶対に…
その瞳に宿った光は、もはや純朴な少女のものではなかった。
崩壊する国家の荒波と極度の貧困によって鍛え上げられた鋼のような不屈の決意だった。
列車はノボシビルスクへ向かって走り続ける。
クリスティーナを待っていたのは、
故郷の暮らしさえ生ぬるく思えるほどの貧しい学生生活だった。
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―2002年・ノボシビルスクー
奨学金は大学に通う授業料を賄うだけで消えていく。
大学に通いながら生活するための金は別で稼がなくてはいけない。
幸いなことに大学入学直後に近隣家庭での家庭教師の口を見つけることができた。
それでも生活費を工面するために切り詰められるものはすべて切り詰め、
それでも足りないときには食事を抜いた。
頼れる家族も近くにいない学生生活は想像以上に過酷だった。
そんな彼女の周囲には似たような境遇で学ぶ者たちがいた。
その一人がミハイル・ヴォルコフ。
ミハイルは華やかな野心を語るよりも、
目の前で起こる非合理に嘆き、憤りを語る青年だった。
学業の傍ら酒場でアルバイトをして生活費を稼ぎ、
授業でも手を抜かない。
決して要領がよいわけではないが、
引き受けたことを投げ出さず約束を違えない実直さを持っていた。
彼は社会科学の知識を現実の社会に役立てたいと考えており、
将来は行政の仕事に就くことを志していた。
もう一人はアリーナ・モロゾワ。
ミハイルとはまるで違う野心を抱いていた。
彼女もまた経済的に恵まれていたわけではないが、
パトロン相手の愛人のような手段も厭わずしたたかに金を稼いで大学に通っていた。
彼女が目指していたのは、
金融や投資の世界で成功し、
自分の力で富と影響力を手にすることだった。
但し、彼女が学んでいるのは金融経済学ではなく、社会学である。
不思議に思ったクリスティーナがその理由を尋ねるとアリーナはあっけらかんと言い放った。
「経済なんてわざわざ大学で学ぶもんじゃないでしょ?そんなことより人の欲が私にとってのチャンスに変わる瞬間を見極めるための眼が欲しいのよ!」
「……大学で社会学を学んでいる人間の発言とは思えないわね…」
「人間がどう動くかを知らずに、金の流れだけ見てどうするのよ。誰が何を欲しがっていて、誰が何を恐れていて、どこに需要が転がっているのか。それがわからなきゃ、数字や仕組みをいくら覚えたって意味がないわ」
そう言って笑う彼女の目には年齢に似合わない鋭さがあった。
アリーナにとって大学は知識を蓄えるだけの場所ではなかった。
人間を観察し、
世の中の仕組みを理解し、
将来の機会を掴みとるための場所だったのである。
「あんたの方こそなんで社会学なんて学んでるのよ?言いたかないけどアンタがたまに描いてる落書きって最高にイカしてると思うわよ?」
「絵の関係を仕事にはできないと思ったの…わたし…美大どころか美術学校すら落ちたの」
「なにそれ?見る目ないわね。経済も絵と同じでアートなの。アートの本質なんて学校で学んだって仕方ないわ!センスと眼を磨くのが大事なのよ!学校で教えてる人自体がだいたいセンスも見る目もないんだから」
そう言ってケタケタと笑うのがアリーナだった。
そんな三人には共通点があった。
義理堅く困っている人を簡単に見捨てられないことだった。
お人好しといってもいい。
ミハイルは困っている人がいれば自分にできる範囲で手を貸した。
アリーナは誰にでも親切なわけではなかったが、
一度自分が価値を認め信頼した相手を簡単には見捨てなかった。
そしてクリスティーナは受けた恩を決して忘れない女性だった。
三人とも貧しさが人の選択肢をどれほど奪うかを知っていた。
だからこそ誰かが困窮しているとき、
それを単なる本人の責任として片づけることができなかったのである。
そんなある日、
クリスティーナは空腹を抱えたまま街を歩いていた。
その姿を見かけたのがミハイルのバイト先の酒場の常連客であるアンドレイ・ペトロフだった。
アンドレイは気の優しい青年である。
困っている人を見れば放っておけず、
他人の頼みを断ることも苦手だった。
ただし一つだけ大きな問題があった。
酒が好きでしかもとにかく飲むのだ。
酒場の店員であるミハイルからすればアンドレイは気のいい常連客であると同時に良き兄貴分でもあった。
同時に酒の量を心配せずにはいられない相手でもあった。
酔って騒ぎを起こすような悪人ではない。
それでも飲み始めればなかなか止まらない。
その日もアンドレイはいつものように酒場で酒を飲んでいた。
ふと店の外に目を向けると明らかに疲れ切った様子の若い女性が店の前で立っていた。
顔色は悪く、うつむいた目にも生気がなかった。
気になってよくよく見るとミハイルの友人の女性だと気付いた。
彼女やミハイルがろくに食事も取れていないことをアンドレイは知っていた。
「クリスティーナだっけ?そんな顔をして…ちゃんと食べてるのか?今日はミハイルに用かい?」
クリスティーナは少し困ったように笑ってごまかそうとした。
しかし空腹は隠しきれなかった。
「良かったら何か食べていかないか?もちろん僕が奢る。僕も一人で飲んでるよりは誰かといた方が楽しいからね」
見ず知らずの男性からの申し出にクリスティーナは戸惑った。
けれど目の前の青年から下心を感じたわけでも、
無理に恩を売ろうとしているように感じたわけでもなかった。
何よりお腹が空いていた。
そもそも今日ミハイルを訪ねたのも、三日間何も食べていなかったからだ。
何か残り物でも分けてもらえないかと頼みに来たのである。
クリスティーナは遠慮がちにうなずきながらアンドレイと一緒に酒場へ入った。
アンドレイはクリスティーナの食事を注文し、
自分は追加の酒を注文した。
そして親切心からか彼女にも酒を勧めた。
「せっかくだ。これも飲んでみる?」
とんでもない失敗だった。
人生で初めて飲む酒。
一口、二口と口をつけたクリスティーナはみるみる顔色を変えた。
頭がくらくらしまともに座っていることもできなくなって目を回して倒れてしまったのである。
生まれつきの下戸だったのだ。
「お、おい!大丈夫か!?」
アンドレイは慌てふためいた。
様子を見ていたミハイルも駆け寄り、
二人でクリスティーナの状態を確かめた。
幸いしばらくすると意識は戻ったものの、
クリスティーナは自分が酒にまったく耐えられない体質であることを思い知らされた。
「すまない…本当にすまない!まさかあんなに弱いとは思わなくて……」
アンドレイは心底申し訳なさそうに頭を下げた。
そして彼女をそのまま一人で帰すわけにもいかずミハイルと共に下宿まで運んでいった。
道中彼は何度も謝ってきた。
クリスティーナも申し訳なさそうにしながらも、
そんな彼の慌てぶりに思わず笑ってしまった。
食事はテイクアウトにしてくれていた。
初対面の女性を酒で倒れさせてしまった男と、
その男に下宿まで運ばれることになった女性。
ずいぶんと間の抜けた出会いだった。
しかし、クリスティーナの記憶に残ったのは、
失敗そのものよりもその後のアンドレイの振る舞いだった。
彼は自分の失敗を軽く受け流すことなく、
最後まで責任を持って彼女を送り届け、
約束どおり食事を用意してくれていたのである。
数日後、アンドレイはミハイルを通じて改めてクリスティーナに謝罪した。
今度は酒場ではなく普通の食堂に彼女を誘う。
もちろん酒は勧めなかった。
「この前は本当に悪かった。今度こそキチンと食事を奢らせてほしいんだ」
その不器用な申し出にまたクリスティーナは笑った。
アンドレイは決して洗練された話し手ではなかったが、
相手の話をよく聞き、
困ったときには力になろうとする優しさを持っていた。
クリスティーナにとってそれは新鮮なことだった。
貧しい学生である彼女にとって、人から何かをもらうことにはいつも負い目がつきまとっていた。
親切にかこつけて何かを求められるのではないか。
助けてもらったことで相手に借りを作ってしまうのではないか。
そんなことを考えてしまう癖があった。
けれど、アンドレイの親切には見返りを求めるような計算が感じられなかった。
そしてアンドレイもまた、彼女の中にある強さに惹かれていった。
貧しさを嘆くだけではなく、
何とかして学び、
自分の人生を切り開こうとする姿勢。
苦しい境遇にありながら、他人の親切を当然のものとして扱わない誠実さ。
それは彼自身が大切にしているものでもあった。
その後も二人は互いの境遇や日々の苦しさを語り合い、やがて恋に落ちた。
酒場での小さな失敗から始まった縁がのちに65年続く波乱万丈な夫婦の歴史の礎となることをこのときの二人はまだ知る由もなかった。
そしてこの年…
のちに世界を驚かせる幻のワイン
「サロン 2002」
が静かに生み出される。
若者たちがそれぞれの野望と貧困の中で泥にまみれていた時代、
歴史の片隅で、未来を繋ぐ時が動き始めていたのである。
処女作の第1話を最後までお読みいただきありがとうございます!
「面白い」
「続きが気になる」
「下手なりにがんばれよ!」
そんな風に感じていただけたなら…
いや!感じていただけなかったとしても!
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執筆の凄まじい励みになりますッ!
ブックマークなんてしていただいた日にはもう…
泣かない程度に歓喜します!
第2話は本日の14時20分に公開予定です。
次話もお付き合いのほどよろしくお願いいたします!




