第7節:逆戻り
女将は俺の顔をじっと見つめると、「少し待ちな」とだけ言って店の奥へ引っ込んだ。店の奥からは、木箱を開け閉めする音や、棚を探る音が聞こえてくる。
――ゴソゴソ。
――ガタン。
静かな酒場に、その音だけがやけに大きく響いた。
やがて女は、小さな青いカードを一枚持って戻ってきた。カードは夕日に照らされ、青い宝石のように鈍く光っている。女はそれを俺の前へ、指先でゆっくりと滑らせた。
木製のテーブルの上を「スーッ」と軽い音を立てながらカードが止まる。
「これだよ。あんた、これを見たことないのかい?」
俺はカードを手に取った。想像していた紙とは違う。
ひんやりと冷たい。金属とも革とも違う、不思議な感触だった。
表面には見たこともない文字がびっしりと刻まれている。その中央には、女の顔写真。
写真という文化は、この世界にもあるらしい。よく見ると、現実世界の運転免許証によく似ていた。
「……いや、初めて見た。」
俺が首を横に振ると、女将の眉がぴくりと動いた。
「見たこと……ない?」
その声は、さっきまでとはまるで違う。笑顔は消え、代わりに警戒と戸惑いが入り混じった表情が浮かんでいた。
「まさか、あんた……」
そこまで言いかけて、女は口を閉じる。
酒場に沈黙が落ちた。さっきまで騒いでいた客たちの笑い声さえ、どこか遠く聞こえる。
俺は無意識に息をのんだ。
(この空気……覚えがある。)
牢屋で老人から「この世界の人間ではない」と言われた時と同じだ。嫌な汗が背中を伝う。
(また魔法使いだと思われたのか?)
鼓動が少しずつ速くなる。しかし女は小さく息を吐き、無理やり笑顔を作った。
「……まあいいさ。ここは酒場だからね。何か注文しておくれ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸につかえていた石が少しだけ軽くなった。
「わ、分かった。」
差し出されたメニューを受け取る。革で綴じられた分厚い冊子だった。
ページをめくるたび、乾いた紙の匂いが鼻をくすぐる。
並んでいるのは、
『ドラゴンエール』
『月狼の蒸留酒』
『妖精の蜜酒』
『アップルビール』
聞いたこともない酒ばかりだ。
(何が何だかさっぱり分からん……。)
適当に指を止める。
「じゃあ、これで。」
女は何も言わず、静かにうなずいた。だが、その横顔はどこか暗い。
俺から目を逸らしたまま、カウンターへ向かっていく。
――嫌われたのだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
しばらくして。ドンッ!
木の机が揺れるほど大きな音が響いた。
「ほらよ。アップルビール。」
瓶には真っ赤なリンゴの絵が描かれている。茶色いガラス越しに、黄金色の液体がゆらゆらと揺れていた。
冷気で瓶の表面には細かな水滴が浮かび、手に持つだけで指先が冷たくなる。
「いただきます。」
王冠を外す。
――プシュッ。
小気味いい音とともに白い泡が口元からふわりとあふれた。鼻を近づけると、甘酸っぱいリンゴの香りと麦の香ばしさが混ざり合う。
(うまそうだ……。)
我慢できず、そのまま喉へ流し込んだ。冷たい炭酸が舌を刺激する。リンゴの甘みとほろ苦さが絶妙に混ざり合い、喉を心地よく滑り落ちていく。
「ぷはぁ……!」
思わず声が漏れる。
(これはうまい。)
そう思った――次の瞬間だった。視界がぐらりと傾く。
天井が揺れる。
客の笑い声が遠ざかり、水の中で聞いているようにぼやけていく。
(……あれ?)
心臓が激しく脈打つ。
息が苦しい。足に力が入らない。手から瓶が滑り落ちる。
ガシャン!ガラスが砕け散る音が酒場中に響いた。
誰かが俺の名前を呼んでいる。女がカウンターを飛び越え、こちらへ駆け寄ってくる姿が霞んで見えた。
だが、その姿も次第に白く溶けていく。
(なんだ……これは……。)
意識は、ゆっくりと深い闇へ沈んでいった。
遠くから、女性の声が聞こえた。
「……丈夫ですか!」
ぼんやりとして聞き取れない。まるで深い水の底に沈んでいるようだった。
「大丈夫ですか!」
今度ははっきり聞こえた。肩を強く揺さぶられる。
重たいまぶたをゆっくり開くと、眩しい白い光が目に飛び込んできた。
「うっ……」
思わず目を細める。鼻をつく消毒液の匂い。規則正しく鳴る電子音。
白い天井。
カーテン。
点滴スタンド。
俺はベッドに寝かされていた。目の前では白衣姿の女性が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「よかった……。気が付きましたね。」
そこに居たのは看護師だった。俺は状況が飲み込めず、ゆっくりと体を起こす。
頭が重い。まるで何日も眠っていたような感覚だ。
「ここは……どこですか?」
「ここは総合病院です。」
(病院?)
何を言っているんだ。俺はさっきまで酒場にいたはずだ。
女に身分証を見せられて、ビールを飲んで……。
「酒場は?」
思わず口をついて出た。
「……え?」
看護師が首をかしげる。
「酒場って……。」
俺は辺りを見回す。
木造の壁はない。
暖炉もない。
酒臭い空気もない。
あるのは真っ白な病室だけだった。
「そんな……。」
看護師はカルテを開きながら静かに説明する。
「あなた、パチンコ店で突然倒れたんですよ。」
「パチンコ店……?」
「ええ。店員さんが救急車を呼んでくださったんです。幸い命に別状はありません。」
パチンコ店。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に現実の記憶が流れ込んできた。
仕事帰り。暇つぶしに立ち寄った店。
回るパチンコ台。耳が痛くなるほどの電子音。
――そこで途切れている。
「じゃあ……。」
俺が体験してきた裁判も。牢屋も。魔法使いも。
あの酒場も。
全部……夢だったのか?そう思った、その時だった。
指先に違和感を覚える。右手は固く握り締められていた。
ゆっくりと手を開く。
そこには一枚の青いカード。
酒場で女が俺に見せた、あの身分証だった。
「……そんな、馬鹿な。」
カードは病室の蛍光灯を受け、静かに青白く輝いていた。




