第8話 黒の女王
窯が完成したのは、バイト二十日目の夕方だった。
最後の耐熱レンガを積み終えて、ジャムおじさんが接合部を確認した。ケンは温度計を窯の内部に差し込んで、設定温度まで上がるかどうかを測った。
「どうじゃ」
「問題ないです。一台目と同じ温度特性が出ています」
「よかった」
老人は少し疲れた顔をしていたが、目が柔らかかった。
「これで三人分を同時に焼けます」
「うむ。あとは使う機会がないことを祈るばかりじゃな」
「そうですね」
ケンも同じことを思っていた。
緊急事態に備えることと、緊急事態が来ないことを願うことは、矛盾しない。準備しながら、来なければいいと思う。それが後方の仕事だ。
窯の火を落として、二人で工場に戻った。
翌朝、チーズが吠えた。
五時五十分。朝の焼成が始まったばかりの時間だった。
いつもの警戒音だった。でも今日は——続いた。吠え続けた。
バタコさんが窓に駆け寄った。
「……多い」
声が低かった。
ケンも窓から外を見た。
空に、黒い点が見えた。一つではない。UFOが五機、いや——七機。南の空から、整然と並んで近づいてくる。
そしてその先頭に、一機だけ違う形があった。
人型ではない。
巨大だった。
UFOでもない。黒い、歪な塊のような飛行体。近づくにつれてその輪郭が見えてきた。
女性の形をしていた。
黒いローブ。長い髪。細長い指。全身が闇の色をしている。大きさは——UFOと同じくらいか、それ以上か。
「あれは——」
バタコさんが息を飲んだ。
「知っていますか」
「昔——ジャムおじさんから聞いたことがある。谷底に封じられていると言っていた」
ジャムおじさんが奥から走ってきた。老人がこんな速度で動くのを、ケンは初めて見た。
窓から外を見て、老人の顔色が変わった。
「ブラックノーズじゃ」
「知っているんですか」
「知っておる。封印が——解けたのか」
老人の声に、珍しく動揺があった。
通信機が鳴った。アンパンマンの声だった。
『ジャムおじさん、南から来ます。ブラックノーズです。封印が解けた。UFOも七機——それと』
一瞬、間があった。
『黒い機体もいます。あいつも一緒に来ている』
ブラックノワールも来た。
ケンは頭の中で状況を整理した。
ブラックノーズ——巨大な闇の女王。封印されていた存在。UFO七機。そしてブラックノワール。
三人が同時に消耗する可能性がある。窯は二台ある。準備はした。
「バタコさん、二台同時に火を入れてください」
「わかった」
「ジャムおじさん、今日は俺が補助に入ります。指示してください」
老人が頷いた。
「カレーパンマンと食パンマンへの連絡は」
「今します」
バタコさんが通信機に飛びついた。
戦闘が始まった音は、工場の中まで伝わってきた。
重い爆発音。それとは違う、低い——唸り声のような音。ブラックノーズが出す音だろうか。地面が微かに揺れるような低周波だった。
ケンは二台の窯を交互に確認しながら、生地の成型を続けた。
アンパンマン用のあんパン、二個。カレーパンマン用のカレーパン、二個。食パンマン用の食パン、二枚。
緊急用として、全員分を二個ずつ用意する。
バタコさんが窯の温度を管理しながら、通信機も確認していた。二つの作業を同時にこなしている。
「アンパンマンの残量、六十パーセント」
バタコさんが言った。
「まだ大丈夫ですね」
「カレーパンマンが——ブラックノワールと交戦中。UFO三機も相手にしている」
「食パンマンは」
「ブラックノーズの周辺バリアを崩そうとしている。でも手こずってる」
ケンは手を動かしながら、頭の中で計算した。
三人が同時に帰還した場合、補給の順番をどうするか。消耗が一番激しい順に優先する。でも、誰が一番消耗しているかは帰ってくるまでわからない。
「バタコさん、帰還の順番を教えてもらえますか。通信で確認できますか」
「やってみる」
バタコさんが通信機に向かった。
「三人に聞いて。今の残量と、補給が必要なタイミングを報告してもらいたい」
少し間があった。
三つの声が、順番に通信越しに言った。
アンパンマン——残量五十五パーセント、まだ戦える。
カレーパンマン——残量四十パーセント、十分以内に補給が必要。
食パンマン——残量三十五パーセント、できれば早めに。
「わかりました。食パンマン、カレーパンマン、アンパンマンの順で対応します」
「聞こえた?」
『聞こえた』と三つの声が同時に返った。
ケンは食パンマン用の食パンを一台目の窯から取り出した。タイミングを確認する。状態を見る。
悪くない。
「バタコさん、食パンマンに帰還を促してください」
「了解」
食パンマンが最初に戻ってきた。
着地の瞬間、いつもより膝の角度が深かった。消耗している。
「後頭部を」
ケンが言う前に、食パンマン自身が後頭部のパネルを開けた。
ケンがパンを差し込んだ。
三秒。
「……ありがとう」
「残量は」
「回復した。七十パーセント」
「ブラックノーズのバリアの状況は」
「硬い。通常のバリアブレードでは通らない。属性が違う——光のエネルギーじゃなく、闇のエネルギーで構成されている」
「対抗手段はありますか」
「ある。でもエネルギーを大量に使う。もう一度補給が必要になる」
「わかりました。使ってください。二回目の準備をします」
食パンマンが空に戻った。
次にカレーパンマンが来た。
いつもより飛行が荒かった。体の一部に、黒い痕があった。
「それは」
「ブラックノワールの腐食攻撃だ。装甲が少し溶けた」
「機能に影響は」
「今のところない。でも長引くとまずい」
ケンはカレーパンを差し込んだ。三秒。
「残量は」
「七十五パーセント。助かった」
「ブラックノワールの動き方は変わりましたか」
「変わった。俺のパターンを全部覚えている。正面からは当たらない」
「カレーパンマンが動く前に打てますか」
「どういう意味だ」
「相手が学習するのは、攻撃を見てから。打つ前に動く——予備動作のないタイミングで撃てば、学習が間に合わない可能性があります」
カレーパンマンが少し黙った。
「……試してみる」
「アンパンマンと食パンマンが注意を引いている間に。隙を作ってもらえるか確認してみてください」
「わかった」
カレーパンマンが戻った。
最後にアンパンマンが降りてきた。
三人の中で一番、落ち着いた着地だった。消耗はしているが、まだ動ける状態だ。
「残量は」
「四十パーセント。でも——ブラックノーズが本気を出し始めた」
「本気を出すと、どうなりますか」
「周囲一帯が闇に包まれる。視界がなくなる。俺の感覚系が狂う」
それは厄介だ、とケンは思った。
「あんパンを」
差し込む。三秒。アンパンマンの体から、充電の気配が伝わった。
「ありがとう」
「一つお願いがあります」
「なに?」
「ブラックノワールをカレーパンマンに任せてほしい。アンパンマンと食パンマンはブラックノーズに集中してほしい」
「でも——ブラックノワールはアンパンチが効かない」
「カレーパンマンが別の方法を試そうとしています。その隙を作ってほしい」
アンパンマンは一瞬考えた。
「……わかった。食パンマンと連携する」
「お願いします。補給は随時対応します」
アンパンマンが空に戻った。
それから四十分、工場の中は戦場だった。
ケンとバタコさんとジャムおじさんの三人で、二台の窯を回し続けた。
食パンマンが二回目の補給に来た。ケンが対応した。
カレーパンマンが三回目の補給に来た。バタコさんが対応した。
アンパンマンが来た。ジャムおじさんが対応した。
誰かが常に工場にいて、誰かが常に補給できる状態を作った。
待機時間が生じたのは一度だけ。食パンマンの二回目の補給と、カレーパンマンの三回目がほぼ同時になった瞬間だ。
ケンは迷わずカレーパンマンを先にした。
「食パンマンさん、三十秒待てますか」
「待てます」
三十秒。食パンマンは静かに待った。文句は言わなかった。
決着がついたのは、空が夕方に染まり始めた頃だった。
カレーパンマンの「予備動作なし」の一撃がブラックノワールに直撃した。アンパンマンと食パンマンが注意を引いた瞬間に、カレーパンマンが動いた。
ブラックノワールは学習できなかった。
見たことのないタイミングだったから。
同時に食パンマンが全エネルギーを注ぎ込んだバリアブレードがブラックノーズの防壁を貫いた。
そこにアンパンマンのアンパンチが入った。
ブラックノーズが、断末魔のような叫び声を上げた。
黒い塊が、南の空に向かって退いていった。UFOも、ブラックノワールも、一緒に消えていった。
三人が工場の前に降りてきた。
全員、消耗していた。でも立っていた。
ケンは三人分の補給パンを持って外に出た。
「お疲れ様でした」
三人が後頭部のパネルを開けた。
三秒。三秒。三秒。
それだけだった。
アンパンマンが、長い息を吐いた。
「……勝てた」
「勝てましたね」
「カレーパンマンのあの一撃——あれはケンさんのアイデアだって聞いた」
「カレーパンマンが実行しました。俺は方向性を言っただけです」
カレーパンマンがケンを見た。
「方向性がなければ動けなかった」
「そうですか」
「そうだ」
食パンマンが静かに言った。
「補給が一度も途切れなかった。それが全てです」
ケンは少し黙った。
今日、三人が同時に消耗した。窯を二台使った。バタコさんとジャムおじさんと三人で回した。一度だけ三十秒待たせた。
でも、切れなかった。
「……バイトの仕事です」
ケンは言った。
三人が、それぞれのやり方で少し笑った。
アンパンマンは目元が緩んで、カレーパンマンは短く鼻を鳴らして、食パンマンはわずかに首を傾けた。
バタコさんが工場の入口から声をかけた。
「夕飯、作ってるから。全員入りなさい」
誰も異論を言わなかった。
夜のメモ帳。
本日の補給回数——食パンマン二回、カレーパンマン三回、アンパンマン二回。窯二台フル稼働。待機が発生したのは一度、三十秒。
ブラックノーズ、出現。封印が解けた理由は不明。
ブラックノワール、カレーパンマンの一撃で撃退。ただし——撤退しただけだ。倒してはいない。
ケンはペンを止めた。
ブラックノーズの封印が解けた。それはバイキンマンが関係しているのか。ブラックノワールと一緒に動いていた。バイキンマンはブラックノーズと連携しているのか。
わからないことが増えた。
でも今日、一つだけはっきりした。
二台の窯があれば、三人同時には対応できる。
それで十分だ。今日は。
チーズが足元に来た。
ケンはその頭を一度だけ撫でて、メモ帳を閉じた。




