第9話 最初の人
戦闘の翌日は、静かだった。
アンパンマンたちは全員、休養日にした。カレーパンマンからは「明日から哨戒を再開する」という通信が入っていたが、ケンはバタコさんと相談して、三日は休ませることにした。装甲の腐食痕の修復も必要だし、何より本体のエネルギーを回復させる時間がいる。
スライス隊からは「本体の膨張率が微増しています」という報告があった。食パンマンが昨日全力を出したためだろう。よんくんが「三日は安静にしてください」と真剣な顔で言っていた。それも込みで三日の休養にした。
工場の中は、久しぶりに穏やかだった。
ケンは通常の焼成スケジュールを一時間遅らせて、在庫の補充と保管庫の整理をした。昨日の戦闘で緊急用パンをかなり使った。補充しないといけない素材もある。光粉の在庫を確認したら、残量が思ったより少なかった。
「光粉、そろそろ補充が必要です」
バタコさんに言うと、少し顔が曇った。
「採取に行かないといけないわね。山の奥だから、半日かかる」
「俺も行けますか」
「外に出られるかどうか、まだわからないって言ってたでしょう」
「そうでした。試してみてもいいですか」
「それはジャムおじさんに聞いて」
ジャムおじさんは朝から奥の部屋にいた。
ケンがドアをノックして入ると、老人は机の前に座っていた。でも何かを書いているわけでも、作業しているわけでもなかった。ただ、座って、窓の外を見ていた。
「ジャムおじさん、少しいいですか」
「ああ、ケン君か。入りなさい」
ケンは椅子を引いて、老人の斜め前に座った。
「光粉の採取に行きたいんですが、俺が外に出られるかどうか——」
「出られるよ」
老人がケンの言葉を遮るように言った。
「もとから、出られないことはないんじゃ。ただ——遠くには行けない」
「遠くというのは」
「この工場から、一定の距離を超えると——戻れなくなる。あんたがこの世界に繋ぎ止められている根っこが、この工場にあるから」
ケンはその言葉を頭の中で転がした。
「根っこ、というのは」
「あんたを呼んだのは、この工場なんじゃ。だからここに最初に現れた。ここがあんたの足場になっている」
「俺を呼んだのは工場、ということは——ジャムおじさんが呼んだんですか」
老人は少し黙った。
「わしではない。この工場そのものが——いや」
老人が窓から外に目を戻した。
「話すべき時が来たな、と思っておった。昨日のブラックノーズを見て」
「ブラックノーズが関係していますか」
「あの子が封印から解けたということは——世界の均衡が動いているということじゃ。そういう時に、あんたが来た」
ケンは黙って聞いた。
「少し長い話になる。聞いてくれるか」
「聞きます」
老人は一度、お茶を飲んだ。
それから話し始めた。
「わしがこの世界に来た時、ここはすでに——今と似た形になっておった」
「すでに、というのは」
「村があった。住民がいた。草木があって、動物がいて、空が青かった。でもわしが来る前は——もっと荒れていたと聞いた」
「誰から聞いたんですか」
老人が少し間を置いた。
「バイキンマンからじゃ」
ケンは少し驚いた。表には出さなかったが。
「バイキンマンから」
「わしが来た時、バイキンマンはすでにここにいた。荒野の真ん中に、一人で。わしより先にここにいた」
「バイキンマンがこの世界を作ったんですか」
「違う。バイキンマンも、誰かに作られた。——わしより前に、この世界に来た者がいる」
部屋が静かになった。
チーズが廊下をとことこ歩く音が、遠くに聞こえた。
「その人物は——どんな人でしたか」
「わしは会ったことがない。でもバイキンマンから聞いた。たくさん話してくれた。記憶がある限り、全部話してくれた」
老人の目が、少し遠くなった。
「老いた人物だったそうじゃ。痩せていて、でも目が穏やかで。いつも何かを描いていた」
「描いていた」
「スケッチブックを持っていた。鉛筆で、色んなものを描いた。人の顔。動物の顔。この世界の景色。それから——」
老人が少し間を置いた。
「設計図を描いた。バイキンマンの設計図を」
ケンは背筋が少し伸びた。
「バイキンマンを設計した人物だったんですか」
「そうじゃ。バイキンマンだけじゃない。この世界の住民の多くも——その人物が設計した」
「遺伝子操作で、ということですか」
「詳しい仕組みはわしにもわからん。ただ、バイキンマンは言っておった。あの人がいなければ、この世界に生命はいなかった、と」
ケンは少し考えた。
この世界をゼロから作った人物。荒廃した世界に転生して、一人で住民を作り、バイキンマンを作った。
「その人物は、今は」
「亡くなっておる。バイキンマンが来た時にはもう年老いていて——わしが来る前に、寿命を迎えた」
「バイキンマンは、その人物のことを——」
「大切にしていた。バイキンマンが話す時の声で、わかった。その人物の話になると、声が変わった」
ケンはバイキンマンのことを思った。
諦めない執念。毎回負けても戻ってくる。世界の外に出たいという願い。
それが——誰かへの想いと繋がっているとしたら。
「その人物が、バイキンマンに何かを残しましたか」
老人が頷いた。
「スケッチブックじゃ。全部の設計図が描いてある。それと——最後のページに、一言だけ書いてあると聞いた」
「何と書いてあったか、聞きましたか」
「バイキンマンは、一度だけ読んでくれた」
老人がお茶の椀を両手で包むようにして、言った。
「お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う——そう書いてあったそうじゃ」
ケンは動かなかった。
老人が続けた。
「わしがアンパンマンを作ったのは、その言葉があったからじゃ。バイキンマンにスケッチブックを見せてもらった時、最後のページを読んで——これだ、と思った」
「アンパンマンの設計思想が、そこから来ているんですか」
「そうじゃ。自分が傷ついても、お腹を空かせた人を助ける。それがアンパンマンの根っこじゃ」
ケンはしばらく黙っていた。
窓の外で鳥が鳴いた。
「ジャムおじさん」
「なんじゃ」
「その人物の名前は、聞きましたか」
老人が少し間を置いた。
「バイキンマンは、名前を教えてくれなかった。ただ——」
老人の目が、少し細くなった。
「たかし、という名前だったと言っておった」
たかし。
ケンは頭の中でその名前を聞いた。
何か引っかかるものがあった。でも、どこに引っかかるのか、すぐには出てこなかった。
「バイキンマンは今も、その人物のことを覚えていますか」
「覚えておるだろう。あの子の記憶は消えない。わしが知っている限り、忘れたことがない」
「バイキンマンが世界の外に出たいのは——その人物の故郷を見たいから、という面もありますか」
老人がケンを見た。
「……よく気づくな」
「ドキンちゃんから少し聞きました。バイキンマンが外に出たがっている理由が複数あるみたいだと」
「そうじゃ。一つではない。でも——たかしという人物のことは、確かにその理由の一つだと思う」
ケンは頷いた。
それ以上は聞かなかった。
まだ、消化しきれていないものがある。整理するのに時間がいる。
「ケン君」
「はい」
「わしがあんたにこれを話したのは——あんたが近いうちにバイキンマンと話すことになると思うからじゃ」
「俺が、バイキンマンと」
「この世界の均衡が動いている。ブラックノーズが封印から解けた。それは偶然じゃない。何かが動いている。そしてあんたは——この世界が呼んだ人間だ」
「俺に何をしてほしいんですか」
老人は少し黙った。
「わしにはわからん」
「わからない」
「正直に言う。わしには答えが出せない。バイキンマンとどう向き合うべきか、この世界をどうすべきか——わしはずっと考えてきたが、答えが出なかった」
老人の声に、疲れがあった。
ずっと抱えてきた疲れだ、とケンには感じられた。何十年も、一人で抱えてきた重さが、その声の底にあった。
「それで——俺に話したんですか」
「そうじゃ。あんたに渡したかった」
「重いですね」
「そうじゃな」
「でも——」
ケンは少し考えてから言った。
「受け取ります」
老人がケンを見た。
「今すぐ答えは出せません。でも、考えます。バイキンマンと話す機会があれば、話します。それだけです」
「……それだけで、十分じゃ」
老人の表情が、少し軽くなった気がした。長い間背負っていたものを、誰かと分けた時の顔だった。
昼過ぎ、ケンは一人で工場の裏手に出た。
光粉の採取は明日以降にすることにした。今日は——少し、考える時間が必要だった。
草の上に腰を下ろして、空を見た。
青い空。白い雲。前の世界の空と同じ色をしている。
たかし、という名前。
老いた人物。スケッチブックを持っていた。絵を描いていた。この世界をゼロから作った。
——それは、どんな人物だったんだろう。
一人で荒廃した世界に転生して、一人で世界を作った。住民を設計して、バイキンマンを作って、百五十年生きて、死んだ。
残したものは——スケッチブックと、一言の言葉と、バイキンマンの記憶だけ。
それで十分だったのか。
ケンには、わからなかった。
でも——「お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しい」という言葉が、今でもこの世界を動かしている。アンパンマンが毎日空を飛ぶ理由になっている。
言葉は残る、とケンは思った。
人が消えても、言葉は残る。その言葉が誰かを動かして、また別の誰かを動かして——気がつけば、一人の老人のスケッチブックの最後のページが、世界の根っこになっていた。
田中のことを、また思った。
——田中、か。
ケンはしばらく草の上に座っていた。
チーズが横に来て、ぴったりくっついた。
「お前は賢いな」
チーズが尻尾を振った。
「俺はまだ、何も答えが出ていない」
チーズは動かなかった。ただ、くっついていた。
それで十分だった。
夕方、地下に降りた。
バターを届ける日ではなかったが、少し報告したいことがあった。
ワンさんが計器の前にいた。
「ケンさん、どうされましたか」
「今日ジャムおじさんから、この世界のことを少し聞きました。本体も関係する話なので、伝えようと思って」
「……聞かせてください」
ケンは話した。
バイキンマンを作った「たかし」という人物のこと。スケッチブックのこと。最後の言葉のこと。
ワンさんは黙って聞いていた。
ロイヤルローフが、静かに脈動していた。
「本体は——知っていたかもしれません」
ワンさんが言った。
「ジャムおじさんから、少し聞いていたと思います」
「そうでしたか」
「ただ——詳しくは話してくれなかった。私たちには、その時まだ早いと思っていたのかもしれない」
「今は」
「今は——いい時期だと思います」
ロイヤルローフの脈動が、少し変わった。
強くなった、というより——落ち着いた。何かが腑に落ちたような、そういう変化だった。
「本体に伝えてくれますか。この世界を作った人が残した言葉を」
「はい」
「お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う——です」
ワンさんが静かに繰り返した。
「……お腹を空かせた人に食べ物を分けてあげることは、きっと正しいことだと思う」
部屋が静かだった。
ロイヤルローフの脈動が、また少し変わった。
今度は——温かくなった気がした。
夜のメモ帳。
ジャムおじさんから聞いたこと。たかしという人物。スケッチブック。最後の言葉。
書きながら、ケンは一つのことを整理した。
この世界には三人の転生者がいた。
最初のたかし。次にジャムおじさん。そして——俺。
たかしは世界を作った。ジャムおじさんはヒーローを作った。俺は——まだわからない。
でも世界が俺を呼んだとしたら、理由がある。
その理由が何なのか、まだわからない。
わからないまま、今日も仕事をした。在庫を確認して、光粉を確認して、ジャムおじさんの話を聞いて、地下に降りた。
それだけだ。
でも——それだけが、積み重なっていく。
ケンはメモ帳を閉じた。
チーズが足元で丸まっていた。
この世界に来て、もうすぐ一ヶ月になる。




