第10話 山道の話
光粉の採取場所は、工場から北東に歩いて二時間の山の中にあった。
バタコさんに地図を描いてもらった。木炭で紙に描いた、手書きの地図だ。道は一本道で、途中に大きな岩が二つある。その先に小さな沢があって、沢を渡ってさらに登ると、岩肌に光粉が自生している群生地がある。
「迷子になったら困るから、チーズを連れて行きなさい」
「チーズでいいんですか」
「チーズは道を覚えてる。何度か一緒に行ったことがあるから」
チーズはその会話を聞いていたのか、尻尾を大きく振った。行く気満々らしかった。
ケンは採取用の袋と、昼食の握り飯と、メモ帳をリュックに入れた。工場の外に出るのは転生してから初めてだ。
外の空気は、工場の中と違った。
当たり前のことだが、広かった。
木が多い。草が多い。土の匂いがする。鳥の声が聞こえる。工場の中でもそれらは感じていたが、外に出ると全部の濃度が上がった。
チーズが先を歩いた。振り返りながら、ケンのペースを確認しながら進む。賢い犬だ。
道は緩やかに登っている。歩きにくくはない。前の世界でも休日に近所を散歩することはあったから、体力は問題ない。
歩きながら、ケンは昨日のジャムおじさんの話を思い返していた。
たかしという人物。スケッチブック。最後の言葉。
そしてバイキンマンが、その人物の記憶を今でも持っているということ。
バイキンマンにとってのたかしは——どういう存在だったんだろう。
親、というのは違うかもしれない。でも師匠というのも少し違う気がする。
ただ、バイキンマンが世界の外に出たい理由の一つに、たかしの故郷を見たいという気持ちがあるとすれば——それは純粋な、誰かへの想いだ。
ケンには、それが少しわかる気がした。
田中健太のことを、この世界に来てからも何度も思い出す。助かったかどうか、今どうしているか、わからないまま。でも考え続けている。
人は、答えのわからないことほど、長く考え続ける。
大きな岩を二つ過ぎて、沢に出た。
水が冷たかった。石を踏みながら渡った。チーズは躊躇なく飛び込んで、バシャバシャと渡った。対岸に着いて振り返り、濡れた体を勢いよく振った。水が飛んできた。
「お前、少し待てないのか」
チーズが尻尾を振った。
ケンは濡れた袖を気にしながら、さらに登った。
木が少し減って、岩が多くなった。登るにつれて視界が開けてきた。
空が広い。
工場から見える空より、ずっと広い。
ケンは少し立ち止まって、空を見た。
青い。本当に青い。こんなに広い空を、前の世界では最後にいつ見たか思い出せない。倉庫の中にいることが多かったし、外に出ても都市の空は建物に挟まれていた。
この世界の空は——どこまでも続いている。
チーズが吠えた。
短い、一声だった。
ケンは空から目を戻した。
岩の影に、誰かがいた。
黒いマント。小柄な体格。大きな目。
バイキンマンだった。
岩の陰に座っていた。UFOはない。ホラーマンもいない。一人だった。
何をしているのか、ケンには一瞬わからなかった。
バイキンマンは、空を見ていた。
こちらに気づいていない。いや——気づいているかもしれないが、動かなかった。ただ空を見ていた。
チーズがケンの足元に来て、バイキンマンの方向を見た。唸り声は出していない。警戒しているが、攻撃的ではない。
ケンは少し考えた。
逃げるという選択肢は、最初から浮かばなかった。
「バイキンマン」
ケンは声をかけた。
バイキンマンがゆっくり振り向いた。
驚いた顔ではなかった。やはり気づいていたらしい。
「……工場のバイトか」
「はい。光粉を採りに来ました」
「一人か」
「チーズと一緒です」
バイキンマンがチーズを見た。チーズはバイキンマンを見た。
しばらく、そのままだった。
「座るか」
バイキンマンが岩の隣を手で示した。
ケンは岩の前に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
風が吹いた。山の上の風は少し冷たかった。チーズがケンの足元に丸まった。
「お前が来てから、アンパンマンたちが強くなった」
バイキンマンが空を向いたまま言った。
「強くなったというより、安定した、という方が正確だと思います」
「同じことだ」
「そうですかね」
「俺の計算が狂った」
ケンはその言葉を聞いた。ドキンちゃんから聞いた話と、同じだった。
「どんな計算ですか」
「アンパンマンたちの消耗ペースのデータを集めていた。一定の消耗パターンがある。それを蓄積すれば、外壁を突破するのに必要なエネルギー量が計算できる」
「エネルギー量というのは——この世界の外に出るための」
「そうだ」
ケンは少し間を置いた。
「補給が安定したことで、消耗ペースが変わった」
「変わった。読めなくなった」
「それが計算が狂った、ということですか」
「そうだ」
バイキンマンがようやくケンを見た。
「お前は自分が俺の邪魔をしているとわかっているか」
「邪魔、というのは——外への脱出計画に対してですか」
「そうだ」
「わかっています」
「わかっていて、補給を続けているのか」
「それが俺の仕事なので」
バイキンマンが少し黙った。
「……変な奴だな」
「よく言われます」
「ホラーマンも同じことを言っていたか」
「同じ言葉でした」
バイキンマンが短く鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「ホラーマンがお前に会いに行ったのは知っている」
「報告したんですか、あいつが」
「しなかった。でも行動パターンが変わった。わかる」
「長い付き合いですね」
「長い」
また沈黙があった。
風が岩を回って、草を揺らした。
「バイキンマン」
「なんだ」
「ジャムおじさんから、たかしという人物の話を聞きました」
バイキンマンが動きを止めた。
止まり方が、今日一番の変化だった。
しばらく、そのままだった。
「……何を聞いた」
「バイキンマンを設計した人物だということ。この世界を作った人物だということ。スケッチブックを持っていたということ」
「それだけか」
「最後の言葉も聞きました」
バイキンマンが空を見た。
表情は読めなかった。でも——空の見方が変わった。さっきとは違う。何かを堪えているような、そういう目になった。
「お前にそれを話すとは、ジャムおじさんも変わったな」
「俺に渡したかったんだと思います」
「渡す?」
「答えが出せなかった重さを、俺と一緒に持ちたかったんだと思います」
バイキンマンはしばらく黙っていた。
「答え、か」
「バイキンマンは——外に出たいんですよね」
「そうだ」
「たかしさんの故郷を見たいから、という理由もありますか」
長い沈黙があった。
今話で一番長い沈黙だった。
「……否定しない」
それだけだった。否定しない。肯定でも否定でもない、でも限りなく肯定に近い言葉だった。
「あの人は——どんな人でしたか」
ケンが聞いた。
バイキンマンがケンを見た。
「なぜ聞く」
「知りたいので」
「知ってどうする」
「どうするかはわかりません。ただ——知りたい」
バイキンマンは少し間を置いた。
それから、空に目を戻した。
「小さい人だった。背が低くて、痩せていて。でも声が大きかった。笑う時は遠くまで聞こえた」
「よく笑う人でしたか」
「よく笑った。でも泣く時も泣いた。住民の誰かが死んだ時は、一人で泣いていた。俺が見ていても気づかないくらい、泣いていた」
「バイキンマンのことは」
「俺のことは——」
バイキンマンの声が、わずかに変わった。
「『お前は大事な仕事をしている』と言った。悪役をやらせていることを、ずっと気にしていた。最後まで」
「最後まで」
「死ぬ前に言った。お前に悪役を押しつけてすまなかった、と」
ケンは何も言わなかった。
「俺は、すまなくないと言った。あの人の世界を守るためなら、悪役でも何でもいい、と」
風が吹いた。
「そう言ったら、あの人は泣いた。また泣いた。老いた人間が、子供みたいに泣いた」
バイキンマンは空を見たまま、それ以上言わなかった。
ケンも何も言わなかった。
チーズが小さく鼻を鳴らした。
しばらく後、ケンは立ち上がった。
「光粉を採りに行きます」
「ああ」
「一つだけ、聞いていいですか」
「なんだ」
「外に出る計画は——今も続けますか」
バイキンマンが少し間を置いた。
「続ける」
「わかりました」
「止めないのか」
「今は止めません」
「今は、というのは」
「もう少し話せる機会があれば——その時にまた、考えます」
バイキンマンはケンを見た。
しばらく、そのままだった。
「……変な奴だ」
「三回目ですね」
「三回目か」
「同じ感想なら、少しは俺のことがわかってきたんじゃないですか」
バイキンマンが短く、また鼻を鳴らした。
今度は、確かに笑っていた。
光粉の群生地は、沢からさらに十分登ったところにあった。
岩肌の割れ目に、淡く光る粉が積もっていた。指で触れると、ほんのり温かい。
ケンは丁寧に袋に採取した。量を確認する。二週間分はある。
作業しながら、バイキンマンのことを考えた。
悪役だ。この世界の敵だ。アンパンマンたちと毎回戦っている。ブラックノーズとも連携していた。
でも——たかしという老人の死に泣いた存在だ。その故郷を見たいと思っている存在だ。
ケンには、まだ答えが出ない。
出なくていい、と思った。
今日は、話せた。それで十分だ。
袋を閉じて、リュックに入れた。
「行くぞ、チーズ」
チーズが尻尾を振った。
帰り道、岩のそばを通った。
バイキンマンはもういなかった。
岩だけが、そこにあった。




